21_活性/停止

1 / アストル精機本社地下研究所

 頭を何度も殴られ、一発ごとに視界は歪んで、耳に入る音は遠くなる。
 草凪一佳はかろうじて意識を手放さずにいたが、それもそろそろ限界だ。
 しかし、背負った除細動器から伝わる振動――放電の前兆に、彼女は最後の気力を振り絞った。

「……申し訳ありません、一佳」
「はっ。遅ぇぞ、アルルカン!」

 パリパリと火花が空気を震わせ始める。
 敵とゼロ距離で密着している今こそ、A.H.A.I.第4号の電撃を確実に浴びせるチャンスだ。もちろん、草凪自身も無事では済まないだろう。
 変なところで律儀な人工知能は、ようやく決心を固めてくれたらしい。

「貴様……諸共か!」

 彼女たちの意図を察知した篝は咄嗟に立ち上がるが、一息遅い。
 草凪はナイフをその場に捨て、両腕を抑え込んでいた男の手首をしっかり掴んで食らいついた。

「離せッ――!」
「逃がすかよ。心中しようぜぇ!」

 草凪の笑い声がこだまする中、除細動器に残されていた電力が解き放たれ、青白いスパークが迸った。
 光の矢が二人の身体を貫き、全身を包む。

「ガッ――!!」

 男の短い呻き声があがる。
 獲物をしっかりと捕らえていた手から力が抜け、草凪は地に伏せた。
 バックパックの中の除細動器は、過電流により自壊した。
 篝は逃れようとした勢いのまま、仰向けに倒れ込んでゆく。

 利用したものとされたもの――ここに、両者の決着はついた。

 

 クランとラズが一時の夢から目を覚ましたのは、雷鳴のような轟きと同時のことだった。
 見覚えのある激しい閃光はA.H.A.I.第4号の攻撃に相違なく、その瞬間に何が起こったのかを、二人は悟った。
 光が収まった場所にあったのは、力なく横たわる草凪の身体、その背で煙と火花を上げる除細動器――そして、それを見下ろす男。
 篝利創を名乗る、彼女たちの生みの親にして敵の姿だ。

「……自滅とは、愚かな邪魔者にふさわしい幕切れですね」

 捨て身の電撃をまともに受けたはずなのに、倒れず踏みとどまり、生きている。
 だが、まったくダメージを受けなかったわけではないのだろう。彼の身体からも煙が立ち上っており、がくりとその場に膝をついた。
 一息、二息。肩を動かすと、その男はふたたび立ち上がり、双子の方へと振り返った。

「ともあれ、これで障害は消えました。今度こそ、大人しく従ってもらいます」
「そんな……」
「あの電撃を食らって、無事なの……?」
「私にも多少はエーテルを操る心得があるということです。その腕の力のように、すべてを受け流すことはできませんでしたが」

 男は何食わぬ顔で、ゆっくりと歩を進める。

「……ん? 12号のビジョンが被検体に届いていない……まさか、その僅かな力でリンクを断ち切ったというのですか。覚醒から間もなくとも、やはりオーグドールは侮れませんね」

 クランとラズは目を閉じたままの瑠生を庇い、迫る篝を睨む。
 しかしその眼差しに、もう不安や怯えの色はない。
 追い詰められ、それでもなお真っ直ぐに、一等強い眼差しで。

「違う。ぼくたちはもう、A.H.A.I.でもオーグドールでもない。ぼくたちは『ディアーズ』。あなたに使われるための道具なんかじゃない」
「この世界に生きている人たちとは違う存在かもしれない……けれど人に寄り添い、共にあるものです。わたしたちはそうありたい」
「……『ディアーズ』、だと……?」

 男の表情に一抹の驚きと不快感が交じる。
 瞬く間に握られた拳が、二人めがけて振り下ろされた。

「戯言を、いい加減にしろッ!!」

 ぎゅっと目を閉じながらも、クランは屈しない。ラズは諦めない。
 何千、何万分の一に圧縮された時の中、あの夕暮れの夢で彼女の覚悟を見届けたのだから。
 そして、二人が祈りを込めて握りしめた手の中で――

「「――お兄(さま/ちゃん)っ!!」」

 悪夢に囚われ冷たくなっていた指先が、微かに、しかし力強く動いた。

2 / 緋衣瑠生

 千を超える破滅的な分岐未来。何百、何千、何万の死。
 苦痛が、悲嘆が、絶望が――そして記憶の奔流が、洪水のように一気に押し寄せる。
 何千分の一秒でも気を抜けばたちまち呑まれる。
 受け流せ。正面から受け止めるな。
 それでもヒト一人の脳など一瞬で壊れてもおかしくない衝撃だ。
 膨大な情報量が魂を致命的に削る。
 一方で、痛みの記憶はその数だけ揺るがぬ原動力を僕に与え、何万倍にも補強する。

『『――お兄(さま/ちゃん)っ!!』』

 聞こえる。彼女たちはここにいる。
 二人のいるところが――僕の一番いたい場所だから!

「……驚いた。まだ潰れないどころか、まさか立ち上がるとは」

 ――どこかで聞いたセリフだ。結局『僕がここで潰れずに立ち上がり、抵抗を試みた未来』というのもいくつかあったので、当然と言えば当然か。
 篝利創を名乗る男は、僕の額と正面衝突した拳を引っ込めて後ずさった。
 頭の中は相変わらずぐちゃぐちゃで、バネのようにいきなり立ち上がったことと、パンチを頭突きで受け止めたことも相まって立っているのもしんどい。
 無数の感情と記憶は今もまだ頭の中を駆け巡り、覚醒したぶんさらに急速に脳を蝕んでいる。
 だけど。

「お兄さま――!」

 僕の左手を握る右手。
 ここにはクランがいる。

「お兄ちゃん――!」

 僕の右手を握る左手。
 ここにはラズがいる。

「ありがとう、二人とも」

 両手の中に、二人の温もりがある。
 ここにいる。生きている。
 ――だから、僕は。

「下がってて。あとは僕に任せて」

 支え起こしてくれた手を離し、右手を自分の額に。

「――活性の右手!」

 金色の光が手のひらから溢れ、脳から身体に流れ込む。
 神経を機械回路に、器官を装置に見立て、四肢の先まで浸透したエーテルが運動能力を平常時の何倍にも引き上げ、不安定な意識を補強する。
 背後の双子が、そして眼前の「敵」が、息を呑むのがわかった。

「それは、まさか――」
「そう。クランの力と同じもの。託されたり、奪ったり……方法はいろいろだったけど、僕はこの力を得たんだ。あなたが視せた未来で」

 前人未到のブラックボックスに由来する力であっても、結局のところはヒトの脳に書き込み可能なプログラムの一種だ。あれだけ何度も頭に叩き込まれれば、再現は充分にできる。

「A.H.A.I.の力は、白詰夫妻の血が流れる体によく馴染む……確かに、あなたの言葉通りみたいだ」

 あとは決着をつけるのみ。いくつもの「これから起こり得ること」をわざわざ視せてくれたのだから――その力も、情報も、存分に使わせてもらう。
 軋む身体を「活性」の力で無理矢理動かし、一気に跳躍。
 そのまま空中で腰を捻り、驚愕に目を見開く男に渾身の回し蹴りを浴びせた。

「グッ……!」

 篝は咄嗟に構えを取って前腕で受け、側頭部への直撃を避けた。
 僕はそのまま着地し、一発、ニ発と拳を叩き込む。
 しかし相手はそれを的確に防御し、エーテルを操って衝撃を分散させることも忘れていない。
 この体術は、敵を殺すために「未来の僕」が得たものだが……鍛錬の足りない現在の身体では、重さも鋭さもこれが精一杯だ。
 けれど、こういうときにこいつがとる行動も、もうわかっている。
 篝は片腕でこちらの攻撃をいなしながら、もう片方の手を白衣のポケットに手を伸ばした。天井の装置の出力を上げ、あるいは命令を変更し、さらなる精神攻撃を仕掛けてくるのだ。

 ――やらせない。エーテルを練り、自分の手のひらと「それ」との間に糸を張り、強く引き寄せるイメージを描く。
 すると床に転がっていたニ丁の拳銃が空中を舞い、僕の両手に収まった。
 そのまま左の銃を頭上に掲げ、今度は貫き破裂させるイメージを込め、引鉄を引く。

「――停止の左手!」

 眩い光とともに放たれた弾丸は、黄金の螺旋を纏って天井の装置を直撃した。
 当然、一発の銃弾では大規模な装置をまるごと破壊することなど到底できない。
 しかし着弾地点から光のラインがクモの巣のように広がり、一瞬にして装置全体を侵食。機能はただちに停止し、青白い光が止んだ。
 ラズと同じ力。これも、無数の絶望の未来で得たものだ。

「……お兄さま、凄い……」
「これが……ぼくたちの力……?」

 クランとラズは、固唾を呑んで様子を見守っている。
 彼女たちの力を抑制していた力場も、いま停止させた装置を発生源としている――これも『未来で知った』情報だ。少し時間が経てば、二人も力を取り戻すはずだ。

「……はっ。はははははははは! 素晴らしい! まさかシミュレーションの中で3号を破壊した果てに、その力を自分自身に取り込むとは!」

 なにが素晴らしいものか。
 何百回聞いても同じようなリアクションだ。もう聞き飽きた。
 ――なにより、早く決着を付けなければこちらがもたない。
 どんな未来であれ本来の持ち主の犠牲なくしては得られなかった力を、目の前のこいつは新しい融合パターンだとか、興味深いケースだとか、その程度にしか思っていないのだ。
 千回分の怒りとともに足先に光を集中させ、今度は脇腹めがけて蹴りを放つ……が。

「マスターっ!!」

 突如としてジュダの霊体が目の前に実体化し、篝の身体を押し退けた。
 両腕と左の顔面を失ったままの彼女が身代わりとなって僕の蹴りを受け、床に倒れ込む。
 そう。この男をなんとかするには、まず彼女を退けなければならない。
 ……しかし。

「ご無事ですか、マスター……」
「そんな脆い形態のまま割り込んでくるヤツがあるか! なんのための変身能力だ!」

 激昂し、吐き捨てるように言う篝。

「今まで何をしていたかと思えば。さっさと立ってこの女を殺せ!」

 エーテルの乗った打撃でさらにダメージを負ったのだろう、ジュダは身体を震わすばかりで動かない。そんな姿を見ても、彼女の主人は舌打ちをするばかりだ。

「自力で動けないなら、私の武器になれ! 役立たずで終わるつもりか!」

 こちらに殴りかかりながら、男は耳障りな声をあげた。
 ……こいつが言葉を発するたびに腸が煮えくり返る。
 腹立たしいことに打撃は正確で力強く、一度受けに回ってしまうと反撃に転じづらい。
 こうしている間にも頭の中はパンク寸前で、今にも破裂しそうな脳を気合で無理矢理抑え込み、「活性」の力で身体を稼働させているような状態だ。
 一瞬、ぐらりと視界が歪む。その隙を敵は見逃さない。
 裏拳がこめかみにめり込み、僕はたたらを踏んだ。
 ――この程度の痛み、千の未来で双子が、みんなが受けた仕打ちに比べればあまりにも些細だ。それでも脳を揺さぶる衝撃に意識を持っていかれそうになりながら、倒れることだけは全力で踏みとどまる。
 一秒に満たない隙。
 しかしもう一度顔を上げたとき、篝の手の中には鍔のない短刀が握られていた。
 放つ気配とガラスのような半透明の赤い刃でわかる。この刀はジュダの霊体を圧縮し、武器の形をとらせたものだ。

「自分の手は徹底的に汚さない人だと思っていたけど。それとも、シミュレーションに反映されていたのはあなたの理想で、実際はそうでもないのかな」
「減らず口を。なければいいんです、目撃者も証拠も!」

 男が横薙ぎに斬りかかってくる。
 こちらも両手の銃を中心にエーテルを凝集させ、対抗できる武器を具現化させる。
 あの「壁」と同じように。より小さく。そのぶん硬く凝縮された「剣」のイメージを纏わせ――現れたのは、ふたつの光の刃。

「チッ。小細工を!」

 斬撃を受け止められた篝が悪態をつく。
 拳銃のバレルの下にエーテルの刃を展開した銃剣。いくつかの未来で、僕はこんな武器を手に戦っていた。
 だが、いま握っているのは当然ただの拳銃だ。エーテルを纏わす芯として特化した作りになっていようはずもなく、刃はきわめて不安定である。そう何発も耐えられるものではない。

「「お兄(さま/ちゃん)!!」」
「大丈夫……僕は負けないから。クランとラズは離れて!」

 そう応えるものの、篝の攻撃は容赦がない。
 突き、袈裟斬り、唐竹割り。空気を切って絶え間なく繰り出される攻撃に防戦一方となり、後ろへ後ろへと追い詰められてゆく。

 ――そして、打ち合うたびに刃を通して流れ込んでくるものがある。
 男への忠誠心と、その根底たる思慕。渇望と悲哀。やりきれない想い。
 A.H.A.I.第6号ジュダの心。
 直接触れているこの男にはもっと強く伝わり、理解できるはずだ。なのに――!

「どうして……どうしてその子の気持ちを考えようとしないの!」
「それが何の役に立つというのです!」

 振り下ろされた刃を、二振りのエーテルの剣を交差させてかろうじて受け止める。
 鍔迫り合うが、力押しされては勝てない。頭も身体もいい加減鈍くなってきた。じき剣も形を保てなくなる。このままでは――

「マスター。彼女の命を、奪うのですか」

 不意に、赤い刀から声があがった。
 しかしその声色は落ち着いたもので、こんな場面で彼女が見せるであろう激情とは程遠い。

「当然だ。もはや生かしてはおく理由はない」
「……教えてください、マスター。あなたは……あたしを、愛してくれますか?」
「状況が見えていないのか愚か者! そんなくだらない話は後にしろ、こいつを――」

 がくり、と篝が体制を崩す。
 彼が言い終えないうちに――その手に握られていた武器が、その手の中から忽然と消えた。

「なっ――」

 もうなりふり構っていられない。こちらも消滅寸前の剣を思い切り薙ぎ払う。
 黄金の刃は、音もなく男の両手首を切断した。

「が――ぐ、ああああぁぁぁぁ――ッ!!」

 宙を舞う右手と左手。
 血飛沫で床と白衣を赤く染めながら、篝利創は後退りした。

「6号!! なんのつもりだッ!!」
「第3号βが……ううん、ラズがあたしを『好きだ』と言ったとき、あたしの記憶も解放されたの。プランの目的、あたしたちの作られた意味……あの子たちが言ってたとおりだった。マスターに教えられる前から、この情報はあたしの中にもあったんだって」

 実体化を解き、姿を消したジュダの声が辺りにこだまする。

「既知の情報がなんだというのだ! 私が……お前の主人が殺されかかっているんだぞ!」
「その人はあなたを殺しません。……むかつくけど、嫌いだけど、殺意がないのは今の打ち合いでわかった。彼女がどういう想いで、今ここに立っているのかも」
「そんなわけがあるか! こいつは私の腕を、腕を……!」

 篝は怒声をあげるが、ジュダはふたたび現れることなく、その気配は薄れてゆく。

「あたしは……ただあなたに見てほしかった。優しくしてほしかった。あの子たちみたいに」

 哀しく、寂しく、そしてどこか穏やかな諦観。
 篝利創の忠実なしもべ――「だった」少女は静かにつぶやき、この場から完全に撤退した。

「脳機能のエミュレータごときが……これだから……!」

 少女の主人「だった」男は、おそらく彼女が去った意味を理解しないだろう。
 あるいは、嘘でも「そうだ」と一言答えれば、ジュダは残った力のすべてを使い、彼のために戦ったのかもしれない。
 しかし、そうはならなかった。それがこの男なのだ。
 クランとラズを覚醒させるために巡らせてきた策略も、彼が人心を理解し、掌握し、操ることに長けていたわけではなく、A.H.A.I.第11号の『未来予測』を頼っていたに過ぎないのだから。

 武器を失った篝は、一転して身を翻す。
 しかし、逃走の一歩が踏み出されることはなかった。

「ギャッ――!」

 前のめりに転倒した男の右脚には、見覚えのあるものが突き刺さっていた。
 ――熊谷さんの得意武器、黒い刃の投げナイフだ。

「……ははっ。マジでよく飛ぶじゃねえか、コレ」

 十メートルほど離れた場所で笑ったのは、息も絶え絶えでうつ伏せに寝そべった草凪だった。
 ナイフを投擲した右手が、力を失ってぺたりと床を叩く。

「オレごと殺せっつったのに……アルルカン、加減しやがったな」
「申し訳ありません。ですが……『きょうだい』たちに教わったのです。どんな生命も、意思も、みだりに奪うべきではない。そして自分は下された命令を聞くだけではない、自分の意思で行動を選ぶべきなのだと」

 除細動器から発せられる合成音声は、壊れかけてノイズ混じりだ。
 それでもはっきりとわかる。レオやシェヘラザードの言葉は、確かに彼の心に届いたのだと。

「それに、これは本来、武器ではありません。人を助け、命を救うための道具……翠の研究にも通ずるモノです。自分は、これ以上彼女をがっかりさせたくありません」
「んだよ、すっかりいい子ちゃんかよ……ま、いいけどさ……」

 草凪が力尽き、その背の除細動器も完全に機能を停止した。
 僕の足元に這いつくばった篝は、こちらから逃れようと脚を引きずり身を捩る。

「おのれ……どいつもこいつも……!」
「……第6号の言う通り、僕はあなたを殺さない。自決もさせない」

 抵抗する力を失った男を見下ろしながら、僕は二挺の銃をその場に捨てた。
 ――最後の仕上げに、もうこれは必要ない。

「殺せば、その瞬間に『次のあなた』が別の拠点で目を覚ます。人格のバックアップシステムとクローンを使った、何体もの予備……その起動スイッチは『前の個体の死』なんだ」

 いくつもの未来で何度も何度も翻弄され続け、ようやく辿り着いた不死身の秘密。
 産みの父母と同年代のはずなのに、未だに若い姿であり続けている理由。
 討ってしまえば、それは逆にこの男に「次」を与えてしまうことになるのだ。
 もちろん、彼にはここで第4号の電撃を無効化しきれずに死ぬ未来もあった。
 しかしそうはならなかった。皮肉にも彼が軽んじたもの――人の生命と意思を尊ぶ心を、A.H.A.I.たちが学んだことによって。

「貴様ぁっ――!!」

 血走った目が憎々しげに見上げてくる。
 こういうときの無様な振る舞いは、転生のカラクリを悟らせないためのものだったのか、それとも普通に怯えていただけなのか。
 どちらでも構いはしない。この場においては意味のない問いだ。

「生かさず殺さず……その方法は、あなたが一番よく知っているはずだ!」

 絶対に逃がさないよう、全体重を乗せた右足で床を這う背中を踏みつける。
 いくつもの悲劇の末、この身体に宿ったクランとラズの力を解放し――

「おのれぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
「活性の右手! 停止の左手!」

 右手で自身の左前腕を掴み、「停止の左手」を後頭部めがけて叩きつけた。
「活性」の力で強化した「停止」の力をもって、人間の記憶と人格を封印する――全人類のオーグドール化のために、A.H.A.I.第13号に搭載されるはずだったシステムだ。

「かっ――」
「終わりだ、ニセモノっ!」

 接触面から金色のスパークが迸り、男が白目を剥く。
 指先から流れ込んでくるのは、何かが閉じて急速に小さくなってゆくようなイメージ。彼を彼たらしめる情報が圧縮され、封印されてゆく。

「緋衣、瑠生……! 私が消えようが、おまえの視た『破滅の未来』は必ず訪れる! 憎き白詰の忘れ形見ども……忘れるな! おまえたちがおまえたちである限り、平穏な未来などない!」

 ――光が、収束した。
 エーテルの粒子が散り、踏みつけにした背中が動かなくなる。
 篝利創を名乗った名もなき男は、ついに生きたまま屍となった。
 彼の計画はここに潰えた――と言うにはまだ早いかもしれないが、少なくとも致命的なダメージを与えられたはずだ。

「……終わった……かな……」

 そして、身体から急速に力が抜け、僕は白い床に倒れ込んだ。
 視界が一瞬暗転したかと思えば、チカチカと点滅し、ぼやけ、ぐにゃりと歪む。
 未来の記憶がいよいよ脳をぐちゃぐちゃにかき回し、膨れ上がらせ、無理矢理に追いやっていた痛みと負の感情の洪水が心臓に染み渡ってくる。

「「お兄(さま/ちゃん)っ!!」」

 クランとラズがこちらに向かって駆け出したところで視界が黒く塗り潰され、その姿は見えなくなった。
 ――僕も、いよいよここまでだ。

3 / アストル精機本社地下研究所

 緋衣瑠生は、二人の少女の腕の中にいた。

「しっかりしてください、お兄さま!」
「やだよ、こんなのやだよ……!」

 泣きじゃくる双子の目の前で、彼女の呼吸は弱まってゆく。
 最大の敵から受けた最悪の呪いであると同時に、それを打ち破る最強の武器となった「未来の情報」は、緋衣瑠生の脳を取り返しのつかないところまで侵食していた。
 クランとラズは、その覚悟を受け入れた。その戦いを見届けた。
 これは夢でもシミュレーションでもなく現実で、彼女の末路はわかっていたはずだ。
 それでも、涙をこらえることはできなかった。

「クラ、ン……、ラズ……」

 焦点の合わない目。ふたたび冷たくなってゆく手。
 間もなく彼女の脳機能は限界を迎えて停止し、生命活動は尽きるだろう。
 ――それを食い止めうる方法は、ひとつしかない。

「……ラズ」

 双子の姉は、妹の手を取る。
 最後の戦いの中で、彼女は「力を縛る枷」を壊してくれた。

「……そうだね、クラン」

 双子の妹は涙を拭い、姉の手をしっかりと握り返す。
 最後の戦いの中で、彼女は「その手段」を目の前で示してくれた。

「――活性の右手」

 姉の右手から湧き上がったライトピンクの輝きが、妹の身体を包む。

「――停止の左手」

 妹の左手に握られたライトグリーンの輝きが、辺りのエーテルを一点に収束させる。
 生かさず殺さず、人間の記憶と人格を封じる『A.H.A.I.』としての呪いの力。 
 しかし双子の『ディアーズ』は、命を救うためその力をいま振るう。
 二人の手は瑠生の額を、頬を、そっと撫で。

「……おやすみなさい、お兄さま。……今は。今は……」
「絶対、ぼくたちがまた起こすから。だから……待ってて」

 最愛の人を、優しく、優しく――海よりも深い眠りへと導いた。