◇ 不確定予測 / Case:269-02 ◇
人の心というのは、もうこれ以上すり減ることはないだろうと思っていても、際限なく摩耗していくるものらしい。
感情が削られ尽くしたのなら記憶を。それでも足りなければ意思を。自我を。
痛みの炎に何もかもを焚べながら、燃え残った私は進み続けた。
――だけど、その暖かさを覚えている。
戦って、戦って、戦って。
殺し殺され、失い続けて――もう、今がいつなのかも曖昧だ。
確かなのはあれから少なくとも十年以上が経ち、クランとラズと過ごした時間よりも、二人を失ってからのほうがずっと長くなってしまったということだ。
――だけど、過ごした日々の輝きを覚えている。
そして、ついに再会した。
私は私を呼ぶ声の源へ、とうとう辿り着いたのだ。
真っ白な迷宮の奥深くに安置されたA.H.A.I.第13号。
立ちはだかる最後の守り人は、かつてこの手にかけた姉とそっくりな双子の姉妹だった。
長杖を携えた『カストール』と大鎌を携えた『ポルックス』。
それは最愛の二人のかつての身体――悪夢の機械に魂を取り込まれた抜け殻だ。
伸びた背と髪が時間の経過を物語り、しかし美しく成長した相貌にかつての笑顔はない。
「――ごめんね。とても長い間、待たせてしまった」
私の言葉に、二人の守り人は眉ひとつ動かさず得物を構えた。
彼女たち本来の魂が囚われているのは、その背後にある電子の檻の中だ。
尊厳を踏み躙られ、あの男の道具として望まぬ計画への加担を強いられ、今なおそこに閉じ込められている。この十数年で彼女たちが受けた苦痛は、想像を絶するものだったはずだ。
安らぎを覚えている。
優しさを覚えている。
真っ直ぐな愛情を覚えている。
そして、すべてを失った痛みと絶望と後悔を覚えている。
……もう、それらの記憶も曖昧だけれど。
破壊と殺戮の果てに擦り切れた想いは――それでも何もかもをなくした私を、今もこうして強烈に突き動かす。
「今度こそ、終わらせるから」
最果ての場所で銃を抜く。すべてをこの手で終わらせるために。
◇
――そして私は、自分を突き動かしてきた希望、あるいは呪いの根源を破壊した。
ふたつの抜け殻の心臓を貫き、災厄の根源たる電子頭脳を焼き払い。
今度こそ、最愛の二人をこの手で殺したのだ。
1 / 緋衣ラズ
ぼくと相棒の腕の中で、彼女は悪夢に囚われ続けている。
握った手が冷たい。瑠生さんは全身汗びっしょりだ。苦しそうにうめいていた声も弱々しくなり、呼吸の回数も少なくなってきた。
心も身体も――きっとこれ以上は保たない。
「お兄さま、目を開けて!」
「どうしよう……どうすれば……」
今のぼくたちに天井の機械を止めるすべはない。篝博士と取っ組み合っている草凪さんも、このままではすぐにやられてしまう。クランと力を合わせて、せめてお兄ちゃんをこの部屋の外まで引きずっていければ――だけど、それを彼女は許さない。
「何をしても無駄よ……あんたたちには、おとなしく博士に従ってもらう」
よろめきながら歩み寄ってきたジュジュが、ぼくたちを睨んだ。
第4号に吹き飛ばされた頭はもとに戻りつつあるけれど、顔の左半分がない。両腕は失われたまま、傷口からは赤い光の粒子が散り、全身のあちこちにブロックノイズのような乱れが走っている。修復が間に合っていないのだろう。これだけ痛々しい姿になりながらも「マスター」の命令を忠実に実行しようとする彼女に、ぼくはたまらず声をあげた。
「もうやめてよ! ジュジュだってボロボロじゃん!」
「うるさい! こんな霊体どれだけ壊れたって、あたしは……」
「その身体だけじゃない。きみの分身たちだって戦ってるんでしょ? みんな同じ想いを抱えて、なのに使い捨てにされて死んでいく……そんなのいいわけないよ!」
「いい加減にして!」
ジュジュの鋭い尻尾が伸び、ぼくの肩口をかすめて足元に突き刺さった。
わざと外したのか、単に狙いがさだまらなかったのかはわからない。
「あんたには関係ないって何回言ったらわかんのよ。あたしがどれだけやられようが、そんなのはいいの」
「ジュジュ……!」
「ラズ、彼女の言うとおり……これ以上は無駄だよ」
クランが立ち上がる。
同時にその左手が瑠生さんのコートの懐から銃を抜き、しっかりと握った。
さっき弾き飛ばされたのと同じ、銀色の拳銃……もう一挺持ってきていたんだ。
「第6号。彼のことが好きなんですね。自分のすべてをなげうってもいいと思えるくらい」
ジュジュが無言でクランを睨み、二人の視線が交差する。
……ぼくも、わかっている。触れ合った霊体から流れ込んできた、彼女の最も強い感情。
どれだけ傷つこうとも、道具のように扱われようとも、その身を突き動かす原動力。
それは自分たちと同じ、一人の相手に対する想い――たぶん、「愛情」と呼ばれる心だ。
だからこそ相棒は悟ったんだろう。いくら説得の言葉を並べても、ジュジュの心を曲げることなどできない。後は互いにそれを貫くしかないのだと。
「わたしはこの人を愛しています。造られた魂であっても、心の底から。この人のためならなんだってできる。あなたと同じように」
「そう……でも無駄ね。そんな武器じゃあたしには効かない。こんな身体でもあんたを叩きのめすくらい簡単なんだから」
「……そうでしょうね」
まさか――そう思ったときには、クランは銃を持ち上げ、自分のこめかみに突きつけていた。
「すぐに天井の機械を止めて、お兄さまを解放してください。さもなければ、あなたたちの計画のパーツを破壊します」
「もう遅いわよ。その女の脳はもうとっくに不可逆的なダメージを負って、今さら解放したって廃人になるだけ。助けたいなら、あんたたちは博士に従うしかないの」
「では、なおさらお断りします。わたしがそのプランに加担することはありません」
「そいつのためならなんだってできるんじゃなかったの?」
「そうです……わたしの目的はお兄さまと同じ、計画の阻止。だけど間違っていました、わたしを消して欲しいだなんて。そんなことを叶えればこの人がどれだけ苦しむか……こうして目の当たりにしないと理解できない、愚か者でした。だから、わたしは……!」
舌打ちするジュジュを、相棒は真っ直ぐに睨む。
トリガーにかけられた指は今にも引かれそうだ。
「ラズ。後のことを……お兄さまをお願い」
「やめてよクラン! そんなの……」
彼女は本気だ。
相手が瑠生さんを解放しようがしまいが、最終的に引鉄を引くつもりだ。そうすればA.H.A.I.第13号は完成することなく白詰プランは破綻する。
それはわかる。計画成就の要が第3号だというのなら、それが失われてしまえば――ここに囚われている間、ぼくの頭にもよぎった考えだ。だけど――!
「やらせない。腕ごと落としてあげる!」
床に刺さっていた槍のような尻尾が持ち上がり、クランを狙う。
ぼくは反射的にそれにしがみつき、胸に抱えた。
「待って! ジュジュもやめてってば!」
「邪魔ッ!!」
ジュジュが尻尾を高く持ち上げ、ぼくの身体も浮き上がる。そのまま振り下ろされ、背中から床に叩きつけられた。視界に火花が散り、呼吸が詰まる。
「ラズっ!!」
こちらを一瞥するクランは、けれど銃の構えを解かない。
力いっぱい捕まえていた尻尾は、すぐに実体化を解いてぼくの腕をすり抜け、ふたたび彼女に切っ先を向けた。
いよいよ引鉄に力を込めるクラン。
その腕を斬り落とそうと伸ばされるジュジュの尻尾。
――いやだ。いやだいやだ。ぼくは、そんなの――!!
「だめだっ!!」
ぼくは無理矢理身体を起こして、勢いのまま相棒に飛びかかった。
銃声が真っ白な空間に響き渡り、二人その場に倒れ込む。
「クラン……ジュジュ……二人ともやめてよ。こんなのやだよ! 痛くて苦しい目に遭って、自分を犠牲にして、それで結局誰が幸せになるの? 誰もなんないじゃん!」
仰向けになったクランの左の額から、つう、と赤い血がひとすじ流れる。
狙いの逸れた弾丸は、彼女の頭の表面を掠めていったらしい。
「嫌だよ、クラン……ぼくは誰にも死んでほしくない。お兄ちゃんのことも、クランのことも大好きなの。だから勝手にいなくならないで!!」
「ラズ……」
言葉とともに熱いものが目の奥から込み上げ、視界が滲む。
目を見開いてこちらを見つめる相棒の頬に、涙と血の雫が落ちた。
遅れてやってきた痛みに、銃弾がぼくの右の額も掠めていたことに気付く。ちょうど鏡写しみたいに同じ場所から流れ落ちた二人ぶんの血が、混ざりあって床にこぼれた。
「……大層な姉妹愛ね」
歩み寄ってきたジュジュがぼくたちを見下ろし、クランの左手を爪先で軽く小突いた。
拳銃は力の抜けた手から簡単に飛び、乾いた音を立てて床に転がった。
「クランだけじゃないよ。ジュジュにだってこれ以上傷ついてほしくない!!」
「だからあんたには――」
「ぼくには関係ないとか、そんなの一生わかんないよ。だってきょうだいじゃん! ジュジュは別に人を傷つけるのが好きなわけじゃない。死ぬほど口悪いけど、ひねくれてるけど、優しい子だって知ってるもん!」
「うるさい! 勝手にわかんないで。あんたなんか。あんたなんか……」
ジュジュは俯いて叫ぶ。ぼくがいくら訴えても拒絶されるだけなのかもしれない。
それでも口に出さずにはいられない。
「じゃあどうしてそんなに辛そうなの? たとえきみがそう思ってなくても、やっぱりぼくにとってはきょうだいで、友達なんだよ。ぼくは……ジュジュのこと好きだよ」
「――っ!!」
その瞬間、ジュジュがたじろいだ。
一歩、ニ歩、ゆっくりと後退していく。
「……なによ。……なによ、なによ……マジでなんなのよ。なんであんたなんか! あたし、あたしは……!!」
「ジュジュ……?」
「やめて! これ以上あたしに話しかけないで!」
「ジュジュ、何を……待って!」
彼女は半狂乱になって首を振り、止める間もなくその場で消えてしまった。
……やっぱり、わかってもらえないんだろうか。ジュジュがのいた場所を見つめていると、突然身を起こしたクランに抱きつかれた。
「……ごめんなさいラズ。わたし、あなたを助けに来たはずなのに」
「わかってる。ありがとうクラン、ここまで来てくれて」
震える背中を抱き、そっとさする。
クランもきっとたくさん悩んで、苦しんで、それでもここに来ることを選んだのだ。今さら考えるまでもない。
「わたしもあなたが大好き。失いたくない。三人で一緒にいたい」
「ぼくも同じだよ。お兄ちゃんと、クランと。三人一緒に『この世界』にいたい」
そう、願いはただそれだけ。
ぼくたちはもう一度、悪夢に囚われた瑠生さんのもとへ急いだ。
「……ごめん……クラン、ラズ……ごめん。ごめんね」
浅く呼吸を繰り返していた口元が微かに動く。
彼女は今も苦しめられ続けているんだ――自分の手で、ぼくたちを殺し続ける夢に。
今さら手遅れだとジュジュは言った。だけど諦めるわけにはいかない。
落ち着いて、できることを考えろ。
みんなで一緒にうちに帰るために。
「覚えてる? ぼくとお兄ちゃんで、クランの心の中に潜ったこと。状況は違うけど、あのときみたいにお兄ちゃんの心に触れて、呼びかけることができれば……」
「意識を現実に呼び戻せるかもしれないってこと……? だけど今はストーク・ポッドも心都研のみんなのバックアップもない。わたしたちの力だって満足に使えない」
「それでもやろう。クランも聞いたでしょ? A.H.A.I.の力は、ヒトの身体に宿ることで真価を発揮するって。今のぼくたちが命を燃やす覚悟でやれば、もしかしたら」
「……そうだね。命を賭けるなら、捨てるよりもお兄さまを救うために。……ううん。それでもわたしたちは死なない。みんなで一緒に帰るんだもの」
頷き合ったぼくたちは、クランの身体から剥がされ、床に散らばってしまったエーテル集積チップをできるだけかき集めた。どれだけ助けになってくれるかはわからない。だけど両手いっぱいのそれを、瑠生さんの手と一緒に握りしめる。ぼくは右手を、クランは左手を。
目を閉じ、意識を集中させ、深く繋がり、潜ってゆくイメージを。
そして、深呼吸――心の中で呼びかける。
――お願い、お兄(さま/ちゃん)――!!
今のぼくたちは、A.H.A.I.としての力を1%も使えない状態かもしれない。
それでも、あなたとの心のつながりを信じている。
どうか、届いて――!!