1 / 心都大学情報科学研究所
入院中の草凪一佳がいなくなった。
通話する山畑の傍でそれを聞いた犬束翠は、草凪の行き先を直感した。なにせ彼女は数日前にも、留置所から抜け出してヨヨギ公園に現れた前科があるのだ。
あいつが目指すのは、きっと――
「……瑠生のところだ。草凪のやつ、アストル精機に向かったんじゃ……」
「そのとおりです、翠」
不意に、犬束にとって馴染み深い声が聞こえてくる。
発信源はノートパソコンの横に置かれた彼女のスマートフォン。実家の犬の写真だったはずの待受画面は、いつの間にか「Gazer」の名を表示した黒いスクリーン――A.H.A.I.との対話アプリに切り替わっていた。それは、クランの指令で眠りについたはずの彼が再起動したことを意味している。
「<ゲイザー>!? どうして……っていうか、なんでキミがそんなこと知ってるの!?」
「それは……」
「そんなん、オレと一緒にいるからよ」
「……はぁ!? 草凪……なんでこのアプリからあんたの声がすんのよ!?」
「忘れたのか? そのアプリ、オレのスマホにもコピーしてあったの」
通話に割り込んできたのは、病院から脱走したという草凪一佳の声だ。犬束はもちろん、その隣にいた羽鳥やスタッフたちにも困惑の色が広がってゆく。
「あんた今度は<ゲイザー>に何を!」
「なんもしてねえよ、今回はこいつからオレのスマホに接続してきたんだ。オレもこいつも、『アレ』に呼ばれたクチだよ」
「……『アレ』?」
「オマエらも知ってんじゃないの? アレだよ、あの双子人形の『FXO』のキャラの」
草凪の口から「それ」の話題が出てきたことに、犬束は戸惑った。
クランとラズのプレイヤーキャラクターの姿をした「何か」。双子の前にたびたび現れ、ヘリから脱出したクランを瑠生と引き合わせたオーグランプ……と推定されるもの。その存在自体は心都研究所でも知られているが、実際に目にした者はいない。
瑠生たちの証言では、「他の人間には見えていないようだった」というが。
「草凪、あんた……『それ』が見えるの?」
「なんだそりゃ。オマエらには見えないの?」
「一佳。スマホのカメラ越しに見る限り、自分にも『それ』は見えません。ついでに言っておきますが、今回は別に率先してあなたと組むわけでは」
「はいはい、オマエは緋衣とあの人形たちを助けようってんだろ? つまりアルルカン、オレらの目指すところは結局同じだ」
「あんた、また瑠生たちになんかするつもりじゃ……!」
「あいつらはもういい。今回はあのおっさんをぶっ飛ばしにいくだけだよ」
どうやら草凪とA.H.A.I.第4号は、篝博士に喧嘩を売りにいこうという魂胆らしい……しかも、あの謎の存在に導かれて。だが彼女たちは知らないはずだ。アストル精機地下研究所には強固なセキュリティと――何より、あの不気味な「壁」とオーグランプたちが待ち受けていることを。
「草凪一佳! 第4号<ゲイザー>! 待つんだ!」
とうとう犬束たちのもとへ緋衣鞠花が駆けつけ、犬束のスマホに向かって叫んだ。さらには彼女と作戦会議に勤しんでいたスタッフや、A.H.A.I.第8号のマスター・山羊澤までもが続々とその場に続々と集まってくる。
「敵地の奥には瑠生たちがいる。状況が不透明だ。迂闊に手を出すようなマネはせず、一旦引き返してくれ」
「その声、緋衣の姉貴か? 事情はなんとなく把握してるけど、そりゃムリだわ。もう真っ白い研究所の中に入ってる」
「なんだって!? セキュリティは? 敵兵やオーグランプたちは?」
「扉なら全部素通り。多分『こいつら』が開けてくれてんだろ。兵士とか幽霊は遭ったそばから片付けてる」
「倒しているというのか? 一体どうやって……」
地下研究所内にいるのは、完全武装の突入部隊をいとも簡単に無力化した相手だ。草凪が先日壊滅させた神川機関の残党とはわけが違う、常識の埒外の怪物と言っていい。
しかし、草凪の答えは簡潔だった。
「電気だ。思ったとおりだったぜ。あの幽霊も『壁』も全部電気に弱い。アルルカン一人いりゃザコもいいとこだな」
「……まさか、そんなことが……!」
それは鞠花たちにとって、まさに盲点だった。
霊媒物質エーテルに由来するものは、電気に対して親和性、ないしは強い耐性を持つのではないか……心都研のスタッフたちはそう推測していたからだ。
A.H.A.I.第6号が、草凪や瑠生を気絶させるのに電気ショックのようなものを用いていたこと。さらにクランとラズが、A.H.A.I.第4号が放った電撃をエーテルを利用した防壁で退けたこと――時間も情報も圧倒的に足りない危機的状況の中、これらの知見から彼らは排除してしまっていたのだ。それがむしろ、オーグランプの致命的な弱点になりうるという可能性を。
「気付いてなかったのか。まあ、そしたらコイツを使わねえ手はないもんな」
「……恥ずかしながらね。ついでにもうひとつ、知っていれば教えてほしい。きみたちを導いたという『FXOの双子』は一体、何者なのか」
「残念ながら、そちらについては『よくわからない』としか答えられません」
問いに応じたA.H.A.I.第4号の合成音声からは、彼自身も戸惑っている様子がわかった。
「クランさんが我々を停止させた際、その解除は第3号αとβのみが可能という制限をかけていました。自分を目覚めさせ、一佳のスマホに接続させたシグナルは第3号αのもの――つまりクランさん自身のはずですが……これは、彼女ではありません」
「……どういうことだい?」
「なんと表現すればいいか……先程の停止命令や、ヨヨギ公園の戦いで受けた『活性の右手』にあった『気配』、ないしは『意識の色』のようなものが、このシグナルからは感じられなかったのです。データ的には大差ないはずのそれを、彼女ではないと直感する程度には」
「それが『FXOの双子』だとわかったのはどうして?」
「簡単だよ。目の前を飛んでるヤツらに『コイツを起こしたのはオマエらか』って聞いたら、首を縦に振ったからな――アルルカン、右だっ!」
一瞬、通信に激しいノイズと轟音が混じる。彼女たちは今まさに、研究所内に待ち受けていたものたちと戦っているのだろう。
「今このときも、自分の本体には外部からのアクセスが殺到しています。おそらくコントロールをオーバーライドし、篝博士の制御下に置こうとしているのでしょう。しかし『彼女たち』がこれをブロックし、守ってくれています」
「そいつらがなんなのかはわからんけど、オレが呼ばれた理由は今話しててなんとなくわかったぜ。そいつら自体の姿が見えて、幽霊の天敵になるアルルカンとコミュニケーションが取れる人間をここに送り込みたかったんだろうな」
――『それ』は姿かたちのみならず、A.H.A.I.に対するアクセス権までクランとラズと同じものを持っている? なぜ今になって再び姿を現したのか――? 鞠花やスタッフたちの疑問をよそに、さらにこの場に加わるものがあった。
「羽鳥青空。聞こえますか、羽鳥青空」
「マスター山羊澤! 応答してくださいまし!」
ひとつは羽鳥のバッグから、もうひとつは山羊澤の胸ポケットからだ。二人がスマホを取り出すと、やはりA.H.A.I.との対話アプリが起動している。
「レオくん!? もしかして、あなたを起こしたのって」
「緋衣ラズからのシグナルです。突入作戦は成功したのか……いや、何かが違う。これは緋衣ラズではない」
「シェヘラザード、おまえさんもか?」
「わたくしはクランさんからのシグナルで……でも確かに、これはどこか彼女とは違う気がしますわ。マスター、今の状況はどうなっていますの?」
第5号と第8号の目覚めに、さらなる困惑がスタッフたちに広がってゆく。彼らを目覚めさせたのが誰なのかは、もはや明らかだった。
そんな波乱の最中、犬束翠は再び自らの端末に呼びかける。
「……草凪、聞いて」
「あん?」
「瑠生と双子ちゃんが危ないの。詳しい様子はわからないけど、瑠生のバイタル反応がおかしい。なんとか助けてあげて。……悔しいけど、ムカつくけど……私じゃできない。追いつけない」
彼女の声には、自らの迷いと躊躇いへの怒りがこもっていた。
そして、規範も協調も無視して突っ走る草凪への苛立ち。そういう奴だからこそ、その場に辿り着いたという事実。ほんの少しの嫉妬と羨望。旧友を救う一縷の希望と、それをよりによってこいつに見出さなければならないもどかしさ。
すべてを引っくるめて、犬束は叫んだ。
「今だけは<ゲイザー>をあんたに託す。だからお願い!」
「はっ。言われなくてもそうさせてもらうよ。オマエはそこで見てな」
「自分もそのつもりです、翠。今はこの導きにしたがい、彼女たちの救援に向かいます」
2 / アストル精機本社地下研究所
――そして今。草凪一佳はアストル精機地下研究所の最深部に辿り着き、白詰プランの主導者に跨ってナイフを突き立てんとしていた。
「くたばれぇっ……!」
しかし彼女の額には汗が流れ始め、表情には苦悶の色が滲んでいた。両脚のふくらはぎにはじわじわと赤色が広がっている。完治していない傷口が開いてしまったのだ。
この場所へ辿り着くまでの道のりも、決して平坦なものではなかった。『FXOの双子』によるバックアップとA.H.A.I.第4号という特効武器があっても、『セカンダリ』の兵士や彼女たちが操るオーグランプとの戦いは草凪の体力を削り、鎮痛剤の効果を減じさせるのには充分だった。
「調子に乗るのも……ここまでだ」
「クッ……ソが……!」
ナイフを押し返さんとする篝に強く捕まれ、細い前腕骨が悲鳴を上げる。腕が痺れ、力が抜けてゆく。刃が徐々に篝の心臓から遠ざかり――とうとう力負けした草凪は、掴まれた両腕から床に引き倒されてしまった。
篝はすかさず体勢の上下を入れ替え、ナイフを持った草凪の両腕を片手で抑えつけ、赤く染まったふくらはぎを踏みつけた。彼女の食いしばった歯の間から、ぎっ、と呻き声が漏れる。
「6号、こちらはもういい。おまえは3号を連れて行け」
冷淡な指令を受け、床に倒れていた首なしの虚像がよろよろと立ち上がった。
この実験場にはエーテルが充満しており、通常ならばすぐにでも破壊された頭部や腕を修復できる環境である。しかし二度にわたる電撃のダメージがそれを大きく阻害し、人体を模した彼女の疑似体組織にも痺れを残していた。
その覚束ない歩みに、男は舌打ちをする。
「……まったく面倒な。野良犬風情が、分をわきまえることです」
組み伏せられ、見下ろされる草凪の顔には、しかし嘲りの笑みが浮かんでいた。
「その野良犬とたいして変わんねえだろ、テメエも。ご執心なのは緋衣か? それともアイツの親のほうか? いちいち回りくどいことやって、アイツをここに呼んでさ。わかるぜ。とにかくアイツをやりこめて、思い知らせてやりたくて仕方な――」
言い終わるより先に、篝の拳が草凪の鼻柱に浴びせられる。鋭く重い一撃が彼女の視界に火花を散らし、脳を揺さぶった。
「わきまえろと言っている」
「んだよ、図星か――」
血がこびりついた拳でもう一度。今度は右顎を叩き割る勢いで頬が打たれる。
男が次の拳を振りかぶった隙を狙い、体勢を立て直そうと試みるものの、もはや脚に力が入らない。左頬への一撃をまともに受け、後頭部が床に打ちつけられ、鉄の味が口の中に広がる。
「殺しはしません。ですが、相応の苦痛は味わっていただきます」
「いっ……てぇ……」
白黒する視界の隅に、草凪は双子の『人形』と緋衣瑠生の姿を捉えた。瑠生は相変わらず寝ていて、双子はそれに寄り添うことしかできずにおり、第6号の『幽霊』はじりじりと彼女たちに迫っている。
犬束は「なんとか助けてあげて」と言っていたが、状況は思っていた以上に悪い。
――あの後、解放されて地上に戻っていた突入部隊が再突入を試みたという。敵勢力を足止めし、草凪がこの場所へ至るのを援護するためだ。それは武装を取り上げられた彼らにとって自殺に等しい行為だったが、あとから目覚めたA.H.A.I.第8号が『思考干渉』の力で敵を撹乱しているおかげで、なんとか抵抗できている……草凪が聞いた限りでは、そんな状況だった。
事態を好転させるには、心都研究所からの増援を待たなければならないだろう。果たして間に合うかどうか。
「あんにゃろ……いらねえ見得切らせやがって」
売り言葉に買い言葉で「オマエはそこで見てな」などと大口を叩いたことを、草凪は自嘲した。
緋衣瑠生と双子の救助は犬束やアルルカンが目指すところであって、自分のものではない。草凪一佳の目的は、あくまでこの男に仕返しをしてやることだったはずだ。
緋衣瑠生に手を出したから――以前の彼女であれば、この衝動をそう理由付けただろう。
しかし、ヨヨギ公園での一件で瑠生と対峙し、草凪は理解してしまった。
双子の命を奪い、自分への憎悪を植え付けたとしても、結局その目の奥に映るのは双子であって、彼女が自分と同じ執着心を抱くことはないのだと。
緋衣瑠生は、自分の同類などではなかったのだ。
つまりこれは長年抱えてきた昏い炎が燃え尽き、目的を見失ったことへの腹いせであり、それをぶつけるべき相手は、自分を体よく利用したこの男だ。そういう理屈である。
なればこそ双子はもとより、もはや瑠生のことすらどうでもよかったはずなのだが。
「……んだよ、もうおしまい? インテリ先生の喧嘩はこんなもんか?」
この男のいかにも科学者然とした風貌に似合わない力の強さ、喧嘩慣れを感じさせる打撃は草凪にとって予想外であった。それでも、気圧されまいと笑ってみせる。
「時間稼ぎのつもりなら無駄ですよ」
「はっ。ぬかせよ、こんだけ挑発に乗っといて」
「やめてください、一佳! これ以上は貴女の命に関わる」
バックパックの中の除細動器から、A.H.A.I.第4号が声を上げた。
「騒ぐなアルルカン、まだ負けてねえ……」
「いいえ負けです。私を殺したいのなら、4号の電撃で仕留めるべきでした。3号や緋衣瑠生と引き離したりせず、全員を巻き込んでね。……緋衣瑠生が壊れたら次は貴女だ。二人仲良く、永遠の悪夢の中に閉じ込めてあげます」
「悪夢だあ……? そんな大層な機械作っておいて、随分みみっちいことするヤツだな」
血を流す脚をさらにギリギリと踏み躙られ、草凪は今度こそ苦悶の声をあげる。
「うぐぁぁっ……!」
激痛を噛み潰しながらも、しかし手の中のナイフだけは決して離さない。今これを相手に渡してしまえば、刺されるのは脚では済まないだろう。
「一佳っ! くっ……」
A.H.A.I.第4号<ゲイザー>――アルルカンは思考を巡らせる。
なんとかして状況を打破しなければ。
状況を把握した限り、施設全体を覆う力場のおかげで第3号の双子はまともに能力を行使できず、天井の機械によるなんらかの攻撃で緋衣瑠生も身動きが取れない。どちらか片方だけでも解放できれば良いのだが、それはおそらく『FXOの双子』にもできないことなのだろう。
彼女たちの加護のおかげで自分は動けているが、それもいつまで保つかは未知数だ。
この自分が、A.H.A.I.第4号がなんとかするしかない。
彼の記憶領域を、殴り込みの道中で草凪がこぼした言葉が駆け抜ける。
――いざというときは、オレごとあのおっさんをやれ。
その一言は、まるで今の状況を見越したかのようだった。
アルルカンは意を決する。今が、その時なのだと。