◇ 不確定予測 / Case:269-01 ◇
クランとの約束を、果たさなければ――。
繰り返す「死」のビジョンが脳を焼く中、気力を振り絞り、言うことを聞かない身体を無理矢理立ち上がらせた。
抜き放った銃の向こうに、磔の少女の姿を捉える。視界はかすんで狙いは曖昧だ。それでも僕がトリガーを引きさえすれば、クランは残ったすべての力を振り絞り、エーテルの奔流に乗せて自らの心臓へと弾丸を導くだろう。白詰プランの要のひとつである『活性』の力は彼女の命とともにこの世界から失われ、狂気の計画は破綻し、あとは主導者さえ無力化してしまえば人々の明日は守られる。
理解している。最悪のシナリオを回避することが、彼女たちの最後の救いになるのだと。
――だが、それでも。
僕は撃てなかった。
それがどんな結果をもたらすかなど、想像することもできずに。
◇
その後の記憶は曖昧だ。
どういう手段を使ってか、草凪が地下研究所に乱入してきたことはなんとなく覚えている。さらにそれを好機とみた突入部隊が踵を返して再突入を試みたようだが、一人残らず惨殺されてしまったらしい。「らしい」としか言えないのは、精神攻撃を受け続けたことで最終的に意識を失い、殺戮の現場を目の当たりにしていないからだ。
僕たちは――僕は、敗北した。
二度と離さないと誓ったはずのクランとラズの手を、ふたたび離してしまった。
考えは浅はかで、覚悟は中途半端で、交わした約束も果たせなかった。
A.H.A.I.第13号が放つ波動の第一波は、太刀川市のアストル精機本社を中心としたおよそ半径百キロメートルほどの範囲だったという。つまり初動だけで首都圏は丸ごと飲み込まれ、国の総人口の三分の一ほどの脳の中身が、あの男が語った汎用人格とやらに書き換えられてしまったことになる。
次いで世界各国に設置された中継装置が発動、少なくとも二十を超える主要都市で同じことが起こり、億単位の人間が瞬く間にあの男の「人形」と化したそうだ。
――これが、僕たちの敗北の結果だった。
◇
目が覚めると、そこは相変わらず真っ白な部屋――アストル精機地下研究所の第二総合実験場だった。意識を失った僕は、そのままここに放置されていたのだろう。
生きている人間は僕のほかにいない。白い空間には十人程度のオーグドール兵、そして草凪一佳の死体が転がっているだけ。他の兵士が片付けにくるでもなく、無造作に放ったらかしにされている。
胴の真ん中に大穴を開け、真っ赤な絨毯を広げて横たわる草凪が、何を思ってこの場に乗り込んできたのかはわからない。だが今にして思えば、人格を書き換えられずに済んだことも、あるいはこの先の地獄を見ずに済んだことも、幸せなことだったのかもしれない。
当然ながらクランとラズ、そして篝利創を騙るあの男の姿はすでにない。無線機で心都研の仲間たちに呼びかけても応答はなく、ノイズが返ってくるばかりだ。
――すぐにわかった。
事態はすでに、取り返しのつく段階をとうに超えてしまったのだと。
とりあえず、僕は近くに倒れていた兵士の服を剥ぎ取って着込んだ。
背丈も体格も同じなので、サイズはぴったりである。ジュダに招かれて来た道を引き返すと、同じ格好の兵士を十名ほど乗せたヘリコプターが発進するところだったので、僕はそれに乗り込んで地下研究所を後にした。
その行動は我ながら極めて冷静に、スムーズに行われた。
悪夢の中では散々泣きわめいていたくせに。
この時点で、僕はもうおかしくなっていたのだ。
たぶん度重なる精神攻撃で脳をかき回されたせいだろう。
だって、何も感じないのだ。
自分と双子のために戦ってくれた、大勢の突入部隊の死体を見ても。
自分のクローンたちが、苦悶に満ちた死に顔で果てているのを見ても。
そして何より――クランとラズがどうなったのかを、もう理解したはずなのに。
◇
ヘリの行き先は心都大学情報科学研究所だった。
到着した途端、乗っていた兵士たちは施設の入口を蹴破って突入しようとしたので、しんがりにいた僕が後ろから全員撃ち殺した。篝を討つことも、クランとの約束を果たすことも叶わなかった二挺の拳銃だったが、同じ顔の兵士たちだらけの場において「僕が本物の緋衣瑠生である」という証にはなってくれた。
兵士たちがなぜここへ来たのかといえば、この施設と職員を残しておくことを、あの男が危険視したからである。鞠花たちが突入作戦に先立って用意した「万が一の備え」は、すでに察知されていたのだ。
その名は「対洗脳防御機構(仮)」。クランとラズを鞠花のクローンに書き込んだ際のデータに加え、エーテル集積チップの解析情報から作られたもので、細かい原理はよくわからないが、とにかく一定範囲内の人間の脳を人格の上書きから保護する仕組みである。根拠に乏しい仮説と突貫工事で設置された試作品とすら呼べない未完成品らしいが、それでもこの兵士たちが潰しに来たのが、有効性の証明といえるだろう。
実際、鞠花をはじめ十人ほどの研究者が人格改変を免れていた。
しかし先述のとおり、防御機構はあくまで急拵えの未完成品である。無事だったのはごく少数で、職員の多くは人格の上書きを中途半端に受けたことで壊れ、廃人になってしまったという。
見知った顔のスタッフたちが、ある者は痙攣しながら意味不明な言葉をつぶやき続け、またある者は泡を吹いて倒れ、発狂の末に落命した。不幸中の幸いだったのは、職員の大多数が再起不能になったことで、その中から「敵」が生まれなかったことだ。……心都研究所を放棄して脱出するにあたり、結局彼らを介錯しなければならなかった事実を「幸い」とするのであればだが。
沢山の職員たちを撃った。その中には猫山さんもいた。これまで受けてきた数えきれない恩に対して、こんな報い方をするのは不本意だったが、彼女たちを狂乱から救う術を僕は他に知らなかった。
人格の上書きを免れうるのは、結局のところ個人の性質、あるいは耐性とでも言うべきものが大きい――このことは後にわかるのだが、それでも鞠花たちの試作品は多大な犠牲を払いつつ、第13号の能力に対してある程度の防御能力を示した。
しかし波動の爆心地付近にいた僕は、当然ながらその恩恵を受けてはいない。
今の意識と記憶の連続性を保てているのは、耐性があったからだろうか?
それとも、単に気絶していたせいだろうか?
あるいはすでに脳が破壊されていたからだろうか?
きっと、どれも違う。
だって気を失っている間、一瞬だけひときわ強く、僕を呼び戻す声が聴こえたから。
その声が聴こえたおかげで、僕はあの白い空間から逃げ延びようと立ち上がったのだから。
『生きて、お兄(さま/ちゃん)――』
クランとラズは第13号の中でまだ生きている。そのおかげで、僕はまだ僕のままでいられている。
ならば――二人をこのまま放っておくという選択肢は、僕にはない。
◇
それから数ヶ月。
第13号の波動に対して耐性を持っていた人間が集結し、篝利創に対する反抗組織を結成することは必然だった。僕と心都研究所出身のスタッフたちは紆余曲折の果て、数十人規模の比較的大きなレジスタンス集団に身を寄せ、この悪夢を終わらせるために活動を開始した。
鞠花を殺したのはその二年後。
篝が所有していた研究施設のうち、上海にあった拠点に攻め入ったときのことだ。
僕の姉は戦闘の最中、持ち込んだ対洗脳装備をすべて破壊され、第13号の波動を浴びた。果てしない戦いで心身ともに限界を超えた末に、彼女は彼女でなくなったのだ。
どん底から再起し、その頭脳とリーダーシップで組織を支え、対洗脳防御機構の開発と改良によって多くの人々の魂を守った偉大な科学者――英雄・緋衣鞠花は、妹の銃弾によって眠りについた。……篝が作り上げた新世界の「従順な市民」となる前に。
心都研究所の元職員、最後の一人だった。
この頃には、地球上の多くの国々が絵に描いたようなディストピア世界と化していた。
白詰プラン実行直後にみられた混乱は鳴りを潜め、都市部は一見すると秩序が保たれた平和そのものの社会だ。
しかしそこに生きる市民は同一の人格を植え付けられつつも、ボディの優劣による厳格なランク付けをされている。特に「祝福の波動」、すなわち人格の上書きを受け付けなかった耐性保持者はランク外とされ、間引き政策の対象として処分される運命にある。レジスタンスに属する多くの者は、この社会制度において生まれながらの死刑囚のようなものなのだ。
こういった多様性を自ら摘み取る行為は、結局のところ人類の種としての寿命を縮める自殺行為にほかならない――「私」の姉は、生前よくそんなことを言っていた。
緋衣鞠花はもういない。私は妹として、最期に彼女の魂を救うことはできたのだろうか。
◇
無限の兵力を持つ敵に対して、こちらの構成員、特に戦闘員が増えることは基本的にない。「ヒトの出来損ない」を狩る鎮圧部隊の勢いは日に日に増し、食糧や医療用品をはじめとした消耗品の調達も困難になる一方で、状況は加速度的に悪くなっていく。
それでも。
何日も、何ヶ月も、何年も、私は戦い続けた。
敵のクローン兵も、市民兵も、かつて味方だった者も大勢殺した。
レジスタンスの同士の中には、私に対して友好的に接してくれた者もいたが、もういない。敵に殺されたり、敵の軍門に降ったり、自ら命を絶ったり、理由はさまざまだったが、とにかくそういう存在はもういない。
特に鞠花がいなくなってからは、生き残った仲間たちからも露骨に距離を置かれていた。
無理もない。緋衣瑠生といえば、篝の眼前にまで迫っておきながら「人形」一体殺すことを躊躇って今の地獄を招き寄せた大罪人であり、そのくせかつての仲間も、姉でさえも、敵となれば涼しい顔で始末する冷徹な殺人者であり、ついでに言えばクローン兵の中でも最もメジャーな「白詰タイプ」と同じ顔なのだ。ここまであげてきた戦果がなければ、とうに追放されるか殺されるかしていただろう。
今の私は、傍から見ると平時は起きているのかどうかもわからないのに、戦っているときだけ生き生きとしているらしい。実際、その印象は私の現状そのままである。
睡眠と覚醒の境界は曖昧で、意識はあってもほとんどぼうっとしていて思考がまとまらず、聴こえないはずの声が聴こえたり、見えないはずのものが見えたりする。アストル精機地下研究所から脱出した時点で兆候はあったのだが、それは歳月を重ねるほどに酷くなっている。
これらが薄まり、思考がクリアになるのは戦っているとき――つまり生死の境に身を置いている間だけ。
なぜ戦い続けるのか。なぜ殺し続けるのか。
いまさら篝を討ち、第13号を破壊したとしても、世界とそこに生きる人々の魂が元のかたちを取り戻すわけでもない。かつて過ごした平穏な日常は、もう二度と戻ってこない。
それでも。
いつもはおぼろげな声が、姿が、極限状態であればあるほどにはっきりと。
私が為すべきことを教えてくれる。
『生きて、お兄(さま/ちゃん)――』
救い出すことも、約束を果たすこともできなかった彼女たち。
その声を、その想いを無駄にしないように。
生きて、生きて、生き抜いて。
今度こそ、二人をこの手で殺すために。
◇
この戦いにおける最も大きな脅威のひとつは、白詰プランの守護者たるA.H.A.I.である。それらが持つ強力な特殊能力は、その人格をインストールしたオーグドールにも継承され、厄介な超能力兵士を無限に生み出す温床だからだ。
したがって、A.H.A.I.は発見次第速やかに殲滅するというのがレジスタンス活動の鉄則であった。
最初に葬ることになったのは、初めて出会ったクランとラズの「きょうだい」、第5号だ。
生真面目で不器用な少年のようだった人工知能は、篝の手によって無機質な殺戮装置としてその自我を書き換えられ、何十何百ものドローンを脳波コントロールするクローン部隊の母体となった。レオの愛称で親しまれていたときの面影は、もうない。
ご丁寧なことに、第5号本体の防衛部隊には羽鳥青空「だった者」が配置されていた。あの男らしいあてつけだが、躊躇えば死ぬのはこちらだ。
A.H.A.I.第5号は戦いの末、私が基地に放った炎の中に消えた。かつて私たちを優しく見守ってくれたかけがえのない先輩の亡骸と、彼女が最期まで身につけていた猫のマスコットとともに。
第8号シェヘラザードの本体があったのは、東北の拠点だった。
愛すべきやかましいお嬢様だった人工知能は、やはり篝の命令を忠実にこなし、洗脳電波をばらまくだけのマシンと化していた。鞠花が遺してくれた対洗脳防御機構は、第8号の持つ『思考干渉』にもある程度通用したが、オーグドールたちが放つ強力なそれを防ぐには、聴覚の遮断を余儀なくされた。
恩師・山羊澤紫道「だった者」は、私の前に妻子を伴って現れた。一番下の子はこのとき八歳だっただろうか。それでも、躊躇えば死ぬのはこちらだ。
拠点にいたものをすべて死に至らしめ、さらなる罪とともに、私は進む。
第4号<ゲイザー>のもとへ辿り着いたのは、さらに二年ほど後のことだ。
この頃になるとレジスタンスの生き残りは十人にも満たず、私はほとんど一人で戦っていた。それでもやることは変わらない。相手がマシンならすべて破壊し、ヒトならすべて抹殺するだけだ。
動かなくなっていたはずの心は、それでも旧友の犬束翠「だった者」を前にして、子供時代の想い出をリフレインさせた。だとしても、躊躇えば死ぬのはこちらだ。
双子との出会いが結び直してくれた縁をすべて自らの手で絶ち、私は進む。
篝利創を騙る男は、今やこの世界の実質的な支配者である。
長い戦いの最中で彼の姿を見かけることもあったが、もちろんその場で始末した。おそらく十回以上は殺しているだろう。
あるときは脳天を撃ち抜き、あるときは首を刎ね、あるときは身体に爆弾を巻いて挽肉にした。そのたびに間違いなく、奴の生命は尽きている。決して死なないわけではない。
なのにあの男は何度殺しても涼しい顔で現れ続けた。無駄な足掻きだと嘲笑うように。
最も悪辣だったのは、第6号ジュダを破壊したときだった。
コンピュータ筐体の前で待ち構えていた男は、民間の「義勇兵」に守られていた。
育ての両親である緋衣善(ヒゴロモ・ゼン)と緋衣律花(ヒゴロモ・リツカ)。親友の水琴。その妹でありクランとラズの親友である美月ちゃん。双子と仲の良かった学友たち。行きつけのレストランの店員だった愛さん。時折挨拶を交わしたご近所さんたち――皆これまで討ってきた仲間と同じく、自我を上書きされた成れの果てである。
思えば最初からそうだった。あの男は決して自らの手で私に手を下そうとはせず、他の誰かを差し向け、陥れ、苦しむ姿を見て悦に浸っているのだ。
紡いだ思い出を。受けた恩を。かけてもらった優しさを。
すべてを破壊し、殺し尽くした末に、私は男の心臓にナイフを突き立てた。
――それが、無駄な足掻きだとわかっていても。
それでも私は進むしかない。
生きて、生きて、生き抜いて。
今度こそ、二人をこの手で殺すために。
――この果てしない、悪夢の中を。