1 / 心都大学情報科学研究所
瑠生とクランを送り出してしばらくの後、心都研究所内は一層の慌ただしさに支配されていた。
今しがたA部隊の隊長から入った通信によれば、突入部隊五十四名は武装解除のうえ全員無事に解放され、オガワビルから地上へ戻ってきたという。瑠生が篝と交わした「二人の身柄と引き換え」の約束は守られたのだ。彼女たちがアストル精機地下研究所へ辿り着いたことは、GPSの反応からも明らかだった。
突入作戦の本部であった会議室では、VS社の残存オペレーターと研究所スタッフによる予備部隊の編成が急がれていた。解放された現地オペレーターの救出と、なにより瑠生とクランを援護するためである。
先程と同じように殴り込んでも、同じように返り討ちに遭うだろう。突入部隊がこれほどあっけなく解放されたのは、篝が律儀であるというよりは、特段の脅威と見做されていないという解釈が正しい。それでもスタッフたちは、彼女たちのためになんらかの突破口を見つけなければならなかった。
対策会議が行われる会議室の隅で、一台のノートパソコンを睨んでいるのはA.H.A.I.第5号レオのマスター・羽鳥青空と第4号<ゲイザー>の犬束翠である。画面には瑠生とクランが身につけた装置から送られてくるバイタルサインを波形化したグラフが表示されていた。
このソフトはもともと、双子がいつもかけている眼鏡――脳波や脈拍を計測するチェッカーから受信したデータを視覚化するものだ。突入部隊が残したハッキング端末が通信中継機の役割を果たしているおかげで、モニタリングは正常である。画面上の各種数値からは緊張状態が見て取れるものの正常範囲内。今のところ、二人は無事ということだ。
「本当に……行かせてよかったんでしょうか」
グラフを見守りながら、そう切り出したのは犬束だ。
「わかりません。私も何か、あの子たちの力になってあげたいけれど……」
羽鳥はそう応じ、唇を噛む。
今の状況は何もかもが唐突で、異常で、一般社会で生きてきた彼女たちの常識の埒外であった。
恐るべき陰謀を知ってしまった今、それに対処するため、そして騒動の中心となってしまった三人のため、自分にいったい何ができるというのか――見守ることしかできない歯がゆさ。そしてやはり、瑠生とクランを強引にでも止めるべきだったのではないか――そんな後悔。
鞠花の、スタッフたちの、自分の判断は正しかったのか? そもそも、この状況における正しい判断とはなんなのだろうか?
無力感、焦燥感、そして迷いが、二人の胸の内で膨れ上がってゆく。
「瑠生ちゃん、撃つのかな」
鞠花の拳銃を受け取った瑠生は、いつもの優しい笑みを浮かべていた。
自分が命を失うか、相手の命を奪うか、あるいはその両方か。瑠生が飛び込むことを決断したのはそういう場所である。そうすることでしか計画を止められないのだとしても、誰かがやらなければならないことなのだとしても。この世に運命というものがあるのなら、なぜあの子をその役に選んだのだろう。羽鳥はそう思わずにはいられなかった。
無事に帰ってほしい。だけどそのとき、あの子たちはとても重たいものを背負って戻ってくるだろう。祈り、待つことしかできないこの時間が、一秒ごとに重く重く羽鳥の心を苛む。
「双子ちゃんを守るためなら、きっと。ヨヨギ公園のときもそうだったって」
心都研への道中、犬束はA.H.A.I.第4号からクリスマスイブの事件の様子を聞かされていた。
反撃に転じるためライフルを構え、草凪に殺意を向ける瑠生の鋭い眼光を<ゲイザー>は「恐ろしい」と感じたという。それは犬束のよく知る穏やかな姿とはまったく違う一面だ。
その苛烈さも、双子の力を呼び起こした『贈りもの』も、記憶を呼び起こした言葉も、源泉はすべて同じ感情。二人のためなら瑠生は己の命すら厭わず戦いを挑み、引鉄を引くのだろう。
――あのまま緋衣のやつに殺されちまえれば良かったんだけどな――。
犬束は思い出す。極限状態の瑠生と実際に相対した草凪一佳は、病室でそんなことを言っていた。
第4号の話によれば、草凪はずいぶん長いこと緋衣瑠生という人間に執着していたらしい。やっていたことはほぼほぼストーカーだ。神川機関とやらの残党を壊滅させたのも、瑠生との接触の障害だったから。両親の仇討ちなんて二の次どころか、考えてすらいなかったのかもしれない。
……気持ち悪い女。一体なにがそこまで彼女を突き動かすのか。
しかも瑠生のことしか見ていないようでいて、こちらの心を見透かしたようなことを言うからたちが悪い。犬束は<ゲイザー>を利用された怒りも相まってすっかり頭に血が昇り、おかげで二人揃って山羊澤から説教を受ける羽目になったのだが。
あの軽薄な笑みを思い出すだけで苛立ちが再燃してくる。今や犬束にとって、草凪は不倶戴天の仇敵となっていた。
「そういえば草凪のやつ、なんか変なこと言ってたような……」
「変なこと?」
「はい。あいつの病室を出るとき……というか、ほとんど追い出された感じですけど。別れ際に『あの幽霊はなんで戦いに出てこなかったんだろうなあ』って」
「幽霊って、ジュジュちゃんのことですよね。蟹みたいな戦車を草凪さんのところに運んだのも、あの子だったとか」
「……本当は『ジュダ』って名前らしいですけど。悪趣味な名前」
A.H.A.I.第6号は瑠生たちの仲間になったフリをして近付き、裏では暗躍を続け、「その時」が来たらクランとラズを騙し討ちし、篝博士のもとへ連れ帰る命令を受けていたという。『裏切りの使徒』の名前が先にあったのか、役割が先にあったのか。いずれにせよ、篝という男の人間性を疑うネーミングだ。
「あの子が『なんで戦いに出てこなかったか』……どうして瑠生ちゃんたちのSOSに応じなかったか、ってことなら……篝博士と裏でいろいろ準備をしてたからじゃないでしょうか? そもそも、彼女の役割は騙し討ちだったわけですし」
「ですよね。私もそう思ったんですけど……」
二人の見解は同じ……というより、当然そうなのであろうと特段疑問にも思わなかった観点であった。今になって犬束が気になったのも、たまたま思い出したからにすぎない。
途端、二人の目の前のノートパソコンが警告音を発する。
画面上では二つのグラフのうち、上のもの――つまり瑠生のバイタルを示す波形が、急速に乱れ始めた。明らかに異常な振れ幅と赤い警告色表示に変化した数値は、間違いなく彼女に何かが起こったことを示している。それも、良くない変化が。
「瑠生!?」
「瑠生ちゃん……? 応答して! 瑠生ちゃん!!」
羽鳥が緊急用の無線機に呼びかけるが、反応はない。異常を察知したスタッフの何人かが画面の前に集まってくる。ただでさえ室内に充満していた緊張感がさらに張り詰め、辺りはにわかにざわつき始めた。
「脳波と心拍に異常……なんだ、これは?」
山畑というネームプレートを首から提げたスタッフが、バイタルサインを注視し怪訝な表情を浮かべる。犬束は彼の姿に覚えがあった。あの病室で、山羊澤とともに草凪の事情聴取に立ち会っていたうちのひとりだ。
「瑠生に何が起こったんですか!?」
「わかりません。が……この脳波、まるで夢でも見ているような……」
直後、その懐からバイブレータ音が響き、山畑は「この忙しいときに」と言わんばかりの様子で電話を取る。
通話の向こうで誰かが大声を上げているのが、羽鳥と犬束の耳にも入った。焦った声色から急を要する話であることは察せられるものの、内容までは聞き取れない。
しかし、緊急事態の正体はすぐに明らかになった。
「いなくなった……? 入院中の草凪一佳が!?」
目を見開いて聞き返す山畑の言葉に、犬束は猛烈に嫌な予感がした。
2 / アストル精機本社地下研究所
病院から備品や来院者の私物を盗み出して脱走し。
道端に一時停車されていたバイクに我が物顔でまたがり。
そして厳重なセキュリティが敷かれているはずの施設へ易々と潜り込み、やはり押収された突入部隊の装備品をくすねながら――
「『第二総合実験場』……なるほど、ここなんだな。案内ごくろうさん」
――「それ」に導かれ、彼女はその扉の前までやってきた。
◇
突然の警報から間を置かず、第二総合実験場の真っ白な扉は、VS社の対「壁」兵装『炸裂ナイフ』の爆発音とともに吹き飛んだ。
直後、ひとつの人影が煙に紛れて飛び込んでくる。
「見つけたァ!!」
黒煙を引きながら一直線に突っ込んでくる電動キックボード。バックパックを背負い、アクセルを全開で回す姿は、その場にいた全員にとって見覚えのあるものだった。
この研究所の主にとっては、双子の覚醒のための捨て駒。
クランとラズにとっては、自分たちの命を狙って襲いかかってきた狂気のテロリスト。
――草凪一佳である。
なぜ、彼女がここに? 一同が疑問符を頭に浮かべるより早く、乱入者は篝利創を名乗る男に向かってまっすぐに突っ込んだ。
自らの身体を弾丸とした時速四〇キロ近いスピードでの体当たり。
その不意討ちに男は反応しきれず、真正面から激突した。
二人は諸共に吹っ飛んだ後、もつれるように床を転がり、コントロールを失って倒れたキックボードがその隣を滑ってゆく。
「マスターっ!?」
一体何が起こったのか。
状況を把握するより先に、ジュダは奇襲を食らった主人のもとへ飛ぶ。
拘束されたままその場に取り残された双子も、突然の事態を飲み込めずに言葉を失っていた。
ラズは相棒に視線を投げかける。もしかして、あの人に協力を頼んだの――? と。
クランはふるふると首を横に振る。当然、草凪の乱入は彼女にとっても想定外だ。
「よう。また会ったな、おっさん」
「草凪一佳……! どうやってここに」
「さあ、どうやったでしょう?」
取っ組み合うように転がった果て、マウントを取った草凪は不敵な笑みで男を見下ろす。
「オレらをいいように利用してくれたツケ、払ってもらおうか!」
「あなたの出番は終わっています、お呼びじゃないんですよ!」
背中を床に打ちつけられ、押し倒された男は苛立たしげに声を荒げた。
それに応えるかのように突っ込んでくるのはジュダだ。主人を助けるべく身体を実体化させ、同時に右腕を粘土のように変形させて剣を生成し、刺突の構えをとる。
刃渡り一メートル近い両刃の直剣である。人間が貫かれれば致命傷は免れない。
「マスターから――離れろ!!」
だが、切先が草凪の背負ったバックパックを捉え、荷物ごと彼女を刺し貫こうとした瞬間――接触面から紫電が爆ぜた。
草凪の背中から放たれる一閃の光。
雷鳴のような轟きが、両刃の剣を弾き飛ばした。……いや。木っ端微塵に粉砕した。
突然の稲妻を浴びたジュダは短く悲鳴を上げ、吹き飛ばされて床に倒れ込む。一瞬で蒸発した腕の付け根からは光の粒子が赤々と散り、エーテルで作り上げられた彼女のボディは、その傷口からさらに分解されつつある。
「残念だったなあ、幽霊」
草凪が愉しげに口元を歪める。
バックパックは内側からのスパークによって焼け焦げて穴が空き、中身が覗いていた。
ジュダに一撃を浴びせたのは、病院内で用いられる医療用の除細動器だ。電気ショックによって心拍の回復を図る装置であるが、当然ながら、本来このように派手で激しい電撃を発生させるものではない。
「やはりその霊体には『コレ』がよく効くようですね、第6号」
「クッ……あんたは……!」
勝ち誇ったような合成音声が除細動器から上がり、ジュダは歯を食いしばってそれを睨む。
間違えようもない。その声は――特殊能力『電力吸収(エレクトリック・アブソープション)』の持ち主、A.H.A.I.第4号。
除細動器と遠隔接続し、操作しているのは、この場に現れるはずのない「きょうだい」だ。
「第4号……どうして……!? みんな眠らせたはずなのに……!」
その登場にもっとも驚いたのはクランである。
それもそのはず。仲間のA.H.A.I.たちを『ドミネイター』の権限で休眠状態したのは他ならぬ彼女で、さらにその解除は自分かラズにしかできないよう命じたのだから。
だがあの声は、そして何よりあの電撃は、間違いなく第4号のものだ。
まさか、あなたが再起動を――? 今度はクランが相棒に視線を投げかけたが、ラズはふるふると首を横に振る。当然、彼女にはなんの覚えもない。
「完全に眠っていましたとも。このとおり、すぐに叩き起こされてしまいましたが……安心してください、クランさん、ラズさん。我々は貴女達の救援に来ました」
「私に反抗するか、4号……!」
「そういうこった。覚悟してもらうぜ、おっさん」
草凪は腰の後ろに手を回すと、バックパックの裏に忍ばせていたナイフを抜き放った。数日前に彼女の脚に刺さっていた、熊谷和久の投げナイフである。
流れるように逆手に構え、篝を名乗る男の心臓めがけて振り下ろされたそれは、しかしすんでのところで止められた。草凪の手首を掴んだ男の腕が、ナイフを押し戻してゆく。
「6号! 4号のオーバーライドはどうなっている!」
右腕を失い、よろけながら立ち上がるジュダの霊体に、篝が叫ぶ。
「既に発動しています! しかし、これは……何者かにブロックされています!」
「ならさっさと私を助けろ! 何が阻んでいるか知らないが、そんなものはすぐに――」
「やらせませんよ」
第4号の声とともにバックパックから電撃が放たれ、今度はジュダの顔面を直撃した。
声をあげる間もなく頭部が弾け、さらに左腕が千切れ飛んだ。少女の虚像は鮮血のように飛び散るエーテルの光とともに、ふたたび床に倒れた。
「わかんなかったんだよなぁ、そこの幽霊がなんであの戦いに出てこなかったのか。裏切る直前まで緋衣たちの味方に見せかけたかったんなら、他の連中と同じようにアルルカンの戦車と戦わせとくところだよな? あぁ?」
男の胸に突き立てるべく、草凪は全身の力を両手に込めてナイフを押す。
「なんでそれをしなかったか? 考えてみりゃ単純な話だ……バレたら困るもんなあ! その幽霊も、あの兵士たちの『壁』も、全部アルルカンの力――電気に極端に弱いってコトが!!」
「端役が……調子に乗るな!」
篝も負けじと押し返し、一進一退の力比べの構図となった。
「何を寝ている6号! こいつのバッテリーが尽きるまで攻撃しろ!」
しかし首と両腕を失ったジュダは身動きが取れず、ぴくりと身体を震わすのみ。
代わりにクランとラズの四肢を捕らえていた八つのブロックが二人を解放し、一瞬にして槍の穂先のような鋭い弾丸に姿を変える。草凪に向かって一斉に飛んだそれらは、しかし背中の除細動器から放たれる電撃によって尽く撃ち落とされ、散っていった。
「兵隊たちはどうして助けに来ねえのか、って顔してるな、おっさん」
「なんだと……」
「てめえがさっき追い返した連中が戻って来たのさ。兵隊はみんな、今頃そいつらの相手で忙しいだろうよ」
篝の顔に浮かんだ焦りの色が強まってゆく。
心都研究所の突入部隊がすぐに戻って来るなど考えられない。そんなことになればすぐに警報が作動し、兵士たちから通信があるだろう。セキュリティのロジックパターンも変え、今の地下研究所へはいかなるハッカーの侵入も許さない。
そもそもの話、ここに草凪が潜り込んでいる今の状況があり得ないはずなのだ。
「誰の手引きだ」
「笑えるな。オマエが鬱陶しがってた神川機関のじじいも、追い詰められたら同じようなこと言ってたぜ」
「追い詰めた? ならさっさとそのナイフを突き立てたらどうです」
「余裕ぶってろ、ボケが!」
草凪は両腕に渾身の力を込めると同時に、ちらりと振り返る。
「おい人形! 緋衣はどうなってんだ! 生きてんのか!」
乱入者が篝とジュダを抑えている間に、枷から解き放たれた双子は瑠生のもとへ駆けつけ、寄り添っていた。
「生きてるよ! だけど……! 止まって! もう止まってよ、第12号!」
「お願いです<ゲイザー>、天井の機械を壊してください!」
クランの呼びかけで、草凪は初めて頭上で威圧感を放つ異物の存在に気付いた。天井から生えた白い柱の群れが、淡く青い光を放っている。
「なんだありゃ、緋衣はアレにやられてんのか……? おいアルルカン、いけるか!?」
「無理です……! この出力では、あの高さまでは届きません」
「クソッ!」
そうしている間にも、A.H.A.I.第12号による精神攻撃が絶えることはない。
瑠生はもはや叫び声をあげることもなくなり、双子の腕の中でぐったりとしている。
「お願いお兄ちゃん、目を覚まして……!」
「お兄さま……お兄さま……っ!!」
二人が左右の手をとって呼びかけても、苦しげな浅い呼吸を繰り返すばかり。
彼女は未だ、醒めない悪夢のただ中に囚われ続け――深く深く、ついに絶望の最果てへと堕ちようとしていた。