15_未来

1 / 緋衣瑠生

 アストル精機地下研究所への突入作戦の決行前日、夕焼けに照らされた心都研究所の休憩室。
 僕はここで、クランとある約束を交わした。

「……わたし、ずっと考えていたことがあるんです」

 クランは自分の頭に置かれていた僕の手をとり、ぐっと握った。
 こちらを見つめる大きな瞳は先程と一転、強い意志の光を宿している。
 これまでになく真剣な面持ちで、彼女は言った。

「お願い、聞いてくれますか?」
「……お願い?」

 一息おいて、クランは続ける。

「お兄さま。……わたしたちの宿命がどうしても覆せないものだったら、そのときは……どうか、わたしを消してください」

 真っ直ぐな視線と言葉。
 一瞬、思考が停止する。

「消してって……何を言い出すのさ」
「言葉どおりの意味です。わたしは……こんな恐ろしい計画の道具として、お兄さまやみんなの魂を壊して、未来を奪うなんてしたくありません。わたしたちが生きている限り、存在している限り『そういうもの』であるのなら……いっそそうなる前に」
「なにをバカなこと! そんなの……そんなことあるわけないじゃない。そんな心配――」
「わかってます! お兄さまがわたしたちのこと何より大切に思ってくれてるって! こんなの酷いワガママだってわかってます! でも……嫌なんです。怖いんです。他にどうしたらいいか……わからないんです。だから……」

 二人にしてあげられることは何もないのか――その苦悩を見透かしたかのように提示されたのは、僕が『最も聞きたくなかった答え』だった。
 けれどそれは、いったいどれほどの重圧の果てに出た言葉だろう。

「今の状況、きっとラズでも同じことを考えると思います。でも……もし、どちらかが生き残ることを許されるなら……妹をお願いします」

 切なる願い。課せられた運命への反抗。僕と妹への愛情。
 だけど当然、これは彼女にとってのベストとは程遠い――いわば最後の選択で。

「……本当に、酷いワガママだ」
「ごめんなさい、わたし……」
「やっぱりきみはお姉ちゃんだね。だけど、そんな悲観をするのはまだ早いよ。そんなことにならないように僕も力を尽くす。やれることはなんでもやる。……その上で」

 僕たちが心の底から望むことはひとつ。
 これからもずっと三人一緒にいたい、ただそれだけのはずだ。
 けれどそれがどうあっても叶わないのなら。
 何もかもを壊してしまう望みなら――その最期は、せめて。
 彼女の気持ちは痛いほど理解できる。
 だから。

「クラン。きみの命、預かるね。他の誰にも――絶対渡さない」

 重ねられた震える手をしっかりと握り返し。
 僕は昨日、彼女にそう約束した。

◇ 不確定予測 / Case:37 ◇

 ならば僕は――約束を果たさなければならない。
 その一心だけで無理矢理に身体を稼働させる。

「……驚いた。まだ潰れないどころか、まさか立ち上がるとは」

 混濁しそうな意識を繋ぎ止め、渾身の力で身を支える。
 一ミリ身体を起こすたびに脳の加熱が加速し、全身が軋む。少しでも気を抜けば、たちまちその場に崩れ落ちてしまうだろう。
 それでも懐に手を伸ばし、予備の拳銃を握る。

「その子たちは……渡さない」

 僕は――約束を果たさなければならない。
 その一心だけで無理矢理に、銀色のオートマチック拳銃を正面に構える。
 同じ銃のはずなのに、さっきの何十倍も重い。スライドは何百倍も重く、トリガーはさらに重いだろう。視界は霞がかり、手は震え、こんな状態ではとても狙いはつけられない。

「無駄だと既に示したはずですが。その弾丸が私に届くことはありません」

 クランとラズを宙に浮かべた拘束具が、彼女たちを盾にするように男の前へと運んだ。
 上下左右にブレる銃口の先に突きつけられる二人の姿。「撃てるものなら撃ってみろ」と言わんばかりだ。
 見通しが、覚悟が、何もかもが甘かった。もはや今の状態でこの男を討つことは不可能だ。
 しかし。

「お兄(さま/ちゃん)……!」

 二人の視線は、声は、ぼやけた視界と止まない耳鳴りの中でも、はっきりと知覚できた。

「もういい! もう逃げてよ、お兄ちゃんっ!!」

 僕を案じて叫ぶラズと。

「――――」

 ただ真っ直ぐに、こちらを見つめるクラン。

 目を閉じて、息を吸う。

 かつて鞠花は、神川機関の手に渡るのを防ぐためにA.H.A.I.第3号を破壊した。
 姉が「これ」に思い至らないはずはない。ならば二度もやらせるわけにはいかない。
 その咎を一緒に背負うと誓った以上、この引鉄を引くのは僕だ。

 クランを愛している。ラズを愛している。
 避けられない最期なら、幕引きはどうありたいか。僕でもきっと同じことを考える。
 ならばこの引鉄を引く役は、他の誰にも譲れない。

 目を開けて、息を吐く。

「……お兄、ちゃん……?」

 双子の妹の目の色が変わる。
 ――そうだよ。ごめんね、ラズ。
 これはきっと、僕が負うより深い深い痛みをきみに押し付けてしまう選択だ。
 僕たちはあらゆる意味で、今までどおりには戻れない。
 できる限り狙いをさだめ、指先に力を込める。

「なっ、貴様は――!」

 男が声をあげるが、一歩遅い。
 最後の力でトリガーを引く。銃声がこだまする。
 同時に、クランの身体からライトピンクの光が溢れ出す。
 弾丸はその輝きに導かれて軌道を修正し。

「――クランっ!!」

 すべてを悟ったラズの悲痛な叫びを乗せて。

「ありがとう、お兄さま」

 微笑むクランの胸の真ん中……心臓めがけて、一直線に突き刺さった。

2 / 緋衣クラン

「うああああぁぁぁぁーーーーーーーーっ!!」

 今までに聞いたことのない絶叫。激しい慟哭。
 懸命に身を起こし立ち上がろうとしていたお兄さまがふたたびうずくまり、頭に爪を突き立てて叫んでいる――これまでとは明らかに様子が違います。
 A.H.A.I.第12号の力で「夢」を視せられているという彼女は今、いったい何を――

「お兄さま……お兄さまっ!?」
「もうやめて、お願いだから! お兄ちゃんが壊れちゃう!」
「これは耐久試験のようなものです。壊れるまでやらなければ意味がありません」

 篝利創を名乗る男は涼しい顔のまま、そんなことを言ってのけます。

「今度は何をしたんですか!」
「先程と同じですよ。彼女の記憶をベースに予測演算された『可能性』の世界を視ていただいています。ただ一点、新たに条件を付け加えていますが」
「条件……?」
「第3号αとβを『ただ喪う』のではなく『自らの手で破壊する』未来を視せる。ただそれだけの、至ってシンプルな条件です」

 ――それは、まさか。

「まさか……わたしがあんなお願いをしたから……」
「おや、何か約束事でも交わしていたのですかね。さしずめ、白詰プランの実行に利用されるくらいならいっそ……といったところでしょうか。もちろん、現実にそんなことはさせませんが」

 身を捩ってもがき、喉が潰れるほどに泣き叫んでいる。
 わたしの「お願い」を実行したお兄さまは、こんな苦しみ方を……?

「ならば、彼女にこの苦痛を与えているのは――いったい誰なのでしょうね?」

 男の囁きが、胸の中に黒いものをじわりじわりと広げてゆく。
 少し考えればわかるはずだ。わかっていたはずだ。
 そんな約束をすれば、この人がどうなるかなんて。
 わたしは知っていたはずだ。
 この人がどれだけわたしたちを想ってくれているか。
 だからこそ、この人はきっとそれを果たすだろうと。
 なのに。だけど。だから。わたしは――

「わたし――なんて。なんて、ひどいことを」
「聞いちゃダメだ、クラン!」

 ぐらぐらと揺れる心を繋ぎ止めるように、妹の声が突き刺さります。

「ぼくの腕くらいどうなったっていい。お兄ちゃんを助けてあげて!」
「ラズ……でも……!」

 いま身体に残されている僅かなエーテルでも、この身を縛る拘束を解いて、お兄さまのもとへ駆けつけることくらいはできるかもしれません。けれどそんなことをすれば、ラズ自身が口にしたとおり……。

「やらせるわけないでしょ」

 妹の願いを遮るように、唐突に目の前に現れたジュダ――実体化されたその膝が、わたしの鳩尾を深々と打ち据えました。

「がっ――」
「クランっ!!」

 目の前がチカチカする。突然の激痛に、息ができない。

「チップを剥がしておけ。全身に仕込んでいるはずだ」
「はい。マスター」

 白黒する視界の中で、ジュダの手がわたしの身体をまさぐるようにエーテル集積チップを探し始めました。……鈍く重い、全身が痺れるような痛み。力を使うどころか、声をあげることもできず背を丸めるわたしの耳元で、彼女は「ホントに不便な身体ね」と冷たく囁きます。
 制服の袖とスカートの裾、その下のタイツが無造作に引きちぎられ、胸元が下着ごと切り裂かれ、身体のあちこちに包帯で巻き付けてあったチップがあっという間に剥がされていき――同時に、お兄さまがふたたび悲痛な叫び声を上げました。

「ああ、またやった! ご覧なさい。どれだけ綺麗事を並べようが結局は人間。家族のように過ごした相手でも、我が身可愛さで手にかけうるということです。……それでも彼女が大事だと言うのなら、おとなしく私に従いなさい」
「違う。それは……違う……!」

 心底愉快そうに笑う男に、ラズが歯を食いしばります。

「お兄ちゃんがぼくたちを殺すのなら、それはぼくたちを大切に思っているからだ。愛してくれているからだ。自分の都合でジュジュを痛めつけて、悲しませて、第12号までこんなふうに使うあなたには絶対わからない!」

 相棒が叫んだ途端、乱雑にチップを剥がしていた手がぴたりと止まりました。
 わたしの肌に触れる霊体に体温はなく――だけど、熱を錯覚させるほどに渦巻く何かが流れ込んできます。怒り、苛立ち、悲しみ、苦しみ、寂しさ――そして。
 ヘリコプターの中でラズが感じ取ったもの。彼女の忠誠心の源。
 それは、わたしたちと同じ――

「……ジュダ。あなたは――」

 瞬間、真っ白な空間の冷たい空気を裂いて、けたたましい警報音が鳴り響きました。
 偽者の篝博士が顔をしかめ、ジュダが驚きに目を見開きます。

「侵入者……この中枢エリアに!? そんなはずは……!」

 一体何が起こったのか、などと思う間もなく。
 第二総合実験場の重い扉が、爆発音とともに吹き飛びました。

◇ 不確定予測 / Case:184 ◇

 カーテンで身を隠しながら、窓の外の様子を窺う。

 眼下に広がる寂れた町並みに人影はなく、「敵」の気配もない。
 ――間もなく日が暮れる。それまで連中に見つからなければ、とりあえず今日はここでしのげるはずだ。仮に誰かがこの廃ビルに侵入しても、一階に仕掛けたセンサーに引っ掛かってからこの三階に来るまでのタイムラグがあれば、迎撃と離脱ができる備えはある。

「もう大丈夫かな。ラズ、こっちに来て少し休もう」
「……うん……」

 今日の宿は、この打ちっぱなしコンクリートの暗い部屋だ。
 放置されてそれほど長い年月が経っているわけではないのだろう。壁面や床のタイルは老朽化してところどころひび割れ、荒れてはいるが、いっとき身を落ち着けるには充分だ。
 部屋の隅でしゃがみ込んでいたラズが、ふらふらと立ち上がって歩いてくる。かつてトレードマークだったお気に入りの長いポニーテールは、出会った頃のような肩までのショートヘアになっている。彼女の金色がかった美しい白髪はよく目立つからだ。
 埃っぽい床を踏みしめる足取りは弱々しく、疲弊しきった顔色にかつての快活さはない。
 当然だ。クランとも離ればなれのまま、もう三ヶ月もこんなふうに追手から逃れ、いつ見つかるかもわからない一時しのぎの隠れ家を転々とする生活を続けているのだから。
 ……それだけじゃない。

「ごめんね、こんなとこで。僕のジャケット羽織りな」
「ありがと……」
「ちょっと待ってて。シート敷くからさ」
「……うん」
「お腹空いたんじゃない? 今のうちに――」
「……ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「今日はここにいるの?」
「そうだね。今のところは安全だと思う」
「明日は?」
「……まだもう一箇所、猫山さんが遺してくれた隠れ家がある。そこを目指そう」
「そこまで辿り着いたら、次は? その次は?」

 ラズは憔悴の表情でこちらを見上げ、声を震わせ訴えてくる。

「もう……ぼくたち二人だけになっちゃったんだよ。誰にも助けてもらえない。みんな……みんな死んじゃった。ぼくたちのために」

 ――わかっている。
 あの男から僕たちを逃がすために、ここまで多くの人が命を落とした。
 心都研究所のスタッフや、ヴァンガード・セキュリティ社のオペレーターたち。道中で僕たちを匿ってくれた人々。
 自宅から脱出したとき、僕たちを庇った羽鳥青空先輩。
 何も言わずに、鞠花のもとへクランを送り届けてくれた親友の天田水琴。
 重傷からの回復もままならないまま敵に立ち向かい、帰らなかった熊谷和久さん。
 僕たちの逃亡の手引きをし、そのために討たれた猿渡啓介先生と犬束翠。
 白詰プランを阻止するためにひとり、またひとりと犠牲になり――ラズはそのたびに深く傷つき、心をすり減らしてきた。

 そして昨日。
 これまで僕たちと行動を共にし、助けてくれた猫山洋子さんが追手の凶弾に倒れた。
 彼女が作ってくれた時間のおかげで、僕たちは命からがら今ここにいる。
 クランを連れて別ルートで逃亡を続けているはずの鞠花も、もう一週間も連絡が途絶えたまま安否不明だ。

 ――わかっている。限界だ。ラズも、そして僕も。

「なんで……なんでこんなことになっちゃったの……?」

 俯き、僕の胸に顔を埋めるラズ。小さく弱々しい肩を抱きしめる――右腕の自由を失った今となっては、それさえも満足に叶わない。
 この三ヶ月だけで、己の無力さを何度呪っただろう。

 ラズを取り返すべく、クランと共にアストル精機地下研究所へ乗り込んだのは半年前のことだ。
 そこで僕は、A.H.A.I.第12号による激しい精神攻撃を受けた。過去の記憶から作り出された「もしも」の中で、命を落とすクランとラズの姿を何度も何度も見せられたのだ。
 しかし――混濁する意識の中、一瞬の虚を突くことができたのは幸か不幸か。
 がむしゃらに身体を起こして篝利創を名乗る男に掴みかかった僕は、そのまま予備の拳銃を抜き放ち、奴の眉間めがけて発砲した。
 ゼロ距離での銃撃によって男は即死。僕と双子はあとから駆けつけた心都研究所とVS社の増援によって救出され、地下施設内にあったA.H.A.I.第6号、第12号、および第13号は破壊され、恐るべき全人類洗脳計画は崩壊した。

 ――はずだった。

 篝利創の名を騙る『白詰プラン』の主導者は、あの日確かにこの手で討った。
 真っ白な床に散った真っ赤な血と脳の破片は、間違いなく本物だった。

 だが、あの男はふたたび僕たちの前に姿を現した。
 自宅に攻め込んできた彼とオーグドール兵たちから命からがら逃げおおせ、引鉄を引いた罪と引き換えに取り戻したはずの平和は、クランとラズの日常は、たった三ヶ月で終わりを告げた。
 突然の出来事に僕たちは迎撃の用意もなければ、相手はかつてラズを拉致したときのような生温い人質戦法をとることもせず。
 逃避行の先々に差し向けられる追手を振り切るたび、誰かが犠牲になった。
 第5号レオ、第8号シェヘラザード、第4号<ゲイザー>――かつて出会い、言葉を交わし、心を通わせたA.H.A.I.たちはすべてコントロールを掌握され、敵に回った。
 情報操作が行われたのだろう、僕たちは重罪人としてネットやマスメディアに晒され、人々から悪意を向けられる対象となり、行動にも大幅な制限がかかった。

 もちろん、ラズはその身に宿った力で必死に抗い、戦った。
 しかし「きょうだい」たちとの望まぬ戦いの果てにも犠牲を防ぐことは叶わず、彼女の心は衰弱してゆき、そのたびに『停止の左手』は輝きを失って、放たれるエーテルの光は黒ずんでいった。

「ぼくたちのせいで水琴ちゃんが死んじゃって、深月とも学校のみんなとも友達でいられなくなっちゃって、羽鳥さんも、熊谷さんも、山羊澤先生も、翠さんも、猫山さんも、みんなみんなぼくたちのせいで……ぼく……ぼく、もう無理だよ」

 彼女を両腕で抱きしめようにも、右腕が言うことをきかない。もう、そんなことすら僕には満足にできない。篝を騙るあの男を撃ち殺したとき、A.H.A.I.第6号ジュダの攻撃で右肩を貫かれた後遺症だ。
 もう、僕たちの味方はいない。
 改めてそう思ったとき――傍らに置いておいたバッグから、ざらついたノイズ音が聞こえてきた。鞠花や猫山さんとの連絡用トランシーバーだ。

「お姉ちゃん!? それとも猫山さん、無事で――」

 目を見開くラズ。しかし、その希望はすぐに打ち砕かれた。

「あー、あー。聞こえていますか、緋衣瑠生さん。そしてA.H.A.I.第3号β。こちらは篝利創です」
「えっ……」

 聞き違えようはずもない――あの男。
 そんな気はしていた。その手にあるのはおそらく、猫山さんが持っていた通信機だ。

「ようやく連絡を取れそうですね。なにしろ緋衣鞠花のトランシーバーは、彼女もろとも壊れてしまいましたので……えー、お知らせします。3号αはすでにこちらの手中にあります。聞こえていたら、どうぞ観念してこちらへおいでください。オーヴァー」

 淡々と告げる声。ラズが膝を折り、へたり込む。

「そんな……お姉ちゃん……クラン……」

 もう一度窓の外を確認する。
 ひとつ、ふたつ……いや、少なくとも六個。建物の陰に、兵士たちの放つ赤いエーテルの光点が見える。いつの間に忍び寄っていたのか――いや、わざとこちらに見せつけているのかもしれない。

「逃げなきゃ。ラズ、立って!」
「……もう無理だよ、こんなの……もう……」
「諦めちゃダメだ、クランのことだってあいつのでまかせかもしれない。本当だとしても、きっとまた助け出せ――」

 ラズの手を引く。けれど、逃亡生活で痩せてしまったはずの彼女の身体は、重く床にくっついてしまったように動かない。

「ラズっ!」
「……ねえ、お兄ちゃん」

 絞り出すような声。
 ――わかっている。もはやこの状況で彼女がとる選択は。

「大切な人たちはみんな死んじゃったけど……それでも、ぼくは嫌だよ。あの男の道具になって、世界中の人たちの心を壊してしまう……そんなこと、嫌だよ」

 ――言わないで。言われてしまったら、僕は。

「残ってるよね? 最後の一発」

 ――やれない、なんて今更言えない。
 バッグの中の警報機が鳴る。一階に奴らが侵入した。もう時間的猶予はない。僕たちの運命は、間もなく詰みを迎える。
 懐から銀の拳銃を取り出す。マガジンには一発だけ弾を残してある。かつてクランと交わした約束と、同じ選択をするであろうラズのために。
 立ち上がった彼女のひんやり冷たく細い指先が、動かない僕の右手の代わりにスライドを引き、そのまま自分の胸の中心に銃口を向けた。

「――ごめん、ラズ」
「謝らないで。ぼくは……あなたと一緒にいられて、この世界で生きられて、幸せだった」

 敵の足音が聞こえる。
 もはや僕にできるのは、その言葉を嘘にしないことだけ。目をそらさないことだけ。
 グリップを握る左手に力を込め、トリガーに指をかける。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 ――僕もだよ。ありがとうラズ。
 そう口にするべきなのか、僕は答えを出せなかった。
 失われて久しかった、懐かしく無邪気な笑顔をしっかりと目に焼き付け。

「……おやすみ、ラズ」

 僕はラズの心臓を撃ち抜いた。
 鮮血とともに散ったエーテルの光は、最後の最期でかつてと同じ、明るく眩い輝きに戻っていた。

 A.H.A.I.第12号による未来演算――果てない悪夢は、さらに続く。