1 / 緋衣瑠生
鞠花をはじめとした研究所スタッフの動きは迅速で、早速アストル精機本社周辺エリアの調査が始まった。現地へと繰り出したVS社の警備チームメンバーは、過去にも僕たちの身辺警護を担当してくれた面々だ。彼らは出発前に姿を表し、必ずラズを救出すると約束してくれた。
日が落ちて人の出入りが増え、研究所全体が慌ただしい雰囲気に包まれる中、僕とクランは昨日と同じ休憩室のベンチに並んで座っていた。
夕焼けに照らされた彼女の表情は重く沈み、不安と無念に唇を噛んでいる。
妹を助けに行きたい、わたしも連れて行って欲しい――もちろんクランは必死に訴えてきた。あるいは今の彼女なら、右手の力を使えば力ずくでわがままを通すことができるかもしれない。けれど彼女はそうすることなく、必死に耐えている。それは僕がここでじっとしているように固く止めたからだけど、それ以上にクラン自身がわかっているからだ。先の会議から自分が外されていた理由を。自分が敵地へ飛び込むことの危険性を。
……そして僕も、おそらく彼女と同じ顔をしている。
――やだっ! やめて、離してよっ!! 助けてお兄ちゃん――!!
ラズの悲鳴が頭から離れない。あの子は僕を呼んでいた。できることなら今すぐ迎えに行きたい。
だけどそれは相手の思う壺。鞠花も言っていたとおり、事態はもはや僕たちだけの問題ではない。ラズを救おうとしてくれている人たちの努力を、ひいては世界中の人々の心を、魂を、僕たちのわがままで台無しにするわけにはいかない。おとなしく託すべきだ。わかっている。わかっているけれど――本当に、これでいいのか?
「ごめん、クラン」
僕はいつもそうだ。彼女たちを助けてるつもりで助けられてて、守ってるつもりで守られてて、この肝心なときに何もできない。
僕にできることは、二人にしてあげられることは、何もないのか。
「謝らないでください、お兄さま。こういう措置になること、わたしも理解できます」
実を言えば、突入作戦とは別に彼女をどこか別の場所へ移送する計画も動いている。それはもちろん篝の手から遠ざけるためだが、そうなればラズとの再会が遠のくばかりか、彼女たちがこれまで築いてきた日常もすべて手放すことになる。毎日を一緒に過ごしてきたあの部屋も、学校の友達も、近所や街の顔見知りも。
海の向こうの知らない施設に軟禁され、そこから一歩も出られず何年も過ごす――そんな可能性だってあるのに、一番の当事者であるクランは微笑んでみせる。僕が深刻な顔をしているせいだろう。
……そうだ。僕がこんなんでどうする。
「ありがとう。そうだね、今は落ち着いて、できることを考えなきゃ」
「はい。わたしも力になれることがないか考えてみます」
「やっぱり自分も連れて行け、なんて会議室に殴り込まないでよ?」
「しません! むしろお兄さまがそうしないか、クランは心配です」
「違いないや。……大丈夫、今はみんなを信じよう」
わざとらしくむくれてみせるクランと笑顔を交わし、少しだけ緊張がほぐれる。
「だけど、お兄さま。やっぱり思うんです。もしラズが無事に帰ってきて、篝博士が捕らえられたとしても……この話はそれで終わりじゃない。白詰プランにも博士にも……自分たちの宿命には、自分たち自身で対峙しないといけない時が必ず来るって」
「……そうだね」
計画の目的こそ明らかになったものの、白詰プランには未だわからないことが多い。救出作戦が成功したとしても、むしろそこからが本当の始まりなのかもしれない。
彼女たち自身の生まれにまつわる一連の事件に最終的な決着をつけられるのは、彼女たち自身でしかあり得ない――そんな直感めいた予感が、確かにある。
「いつかはわからないけれど……その宿命はわたしたちが生きている限り、どんな形であれ避けることはできない気がして。だからお兄さま、そのときは」
「大丈夫。何があっても僕はきみたちと一緒だよ。今更放っておいたりしない。僕だって、産みの両親のこと結局何もわかってないし……覚悟はしてるつもり。そのときが来たら、一緒に行こう」
「……はい。ありがとうございます」
いつものように頭をそっと撫でると、クランもいつものように甘く柔らかな笑みを見せてくれた。
――けれど。
「お兄さま」
「うん?」
「……わたし、ずっと考えていたことがあるんです」
クランは自分の頭に置かれていた僕の手をとり、ぐっと握った。
こちらを見つめる大きな瞳は先程と一転、強い意志の光を宿している。
これまでになく真剣な面持ちで、彼女は言った。
「お願い、聞いてくれますか?」
2 / 緋衣クラン
あっという間に一日が過ぎ、心都研究所はふたたび日没を迎えました。
アストル精機本社周辺の調査・偵察で得られた情報をもとに突入計画が練られ、昼頃にはVS社からの増援が到着。心都研スタッフとの打ち合わせを経て編成された部隊は今、現地周辺へと展開しています。
ラズの救出と白詰プランの阻止、そして篝博士の拘束を目的とした作戦の決行は今夜――時刻はもうすぐ十九時。作戦開始まであと数分。
幾つかの予備計画に加えて、味方になってくれるかもしれない『FXOのクランとラズ』の捜索も行われましたが、結局、彼女たちが姿を現すことはありませんでした。それとも、誰の目にも見えないだけで、本当はどこかでわたしたちの動向を見ているのでしょうか……?
わたしもできる限りの情報をスタッフの皆さんと共有したけれど、今はそれが彼らの武器となり、作戦がうまくいくことを祈るしかありません。
――ラズ、どうか無事で。
二階の会議室に集合した三十人ほどのスタッフは、各々モニタとキーボードに向かって臨戦態勢をとっています。突入部隊が侵入口に辿り着いたら、彼らの端末を経由してハッキングを仕掛け、セキュリティの無効化を図るという段取りです。
つまり、ここが今回の作戦本部。
緊張が張り詰める部屋の一角にわたしと瑠生さん、そして第5号の羽鳥青空さん、第8号の山羊澤紫道先生、第4号の犬束翠さん――A.H.A.I.のマスターたちが一同に会し、小さなテーブルを囲んでいました。
わたしの装いは霜北沢中学校の制服であるセーラー服。計画のパーツなどではなく、この世界に生きる一員であることの証。ラズの奪還に直接参加はできないけれど、気が引き締まる服装として、研究所に置いてあった予備に袖を通したのでした。
「……ごめんなさい、みんな」
「構わない。この局面で、おれたちが足枷になるわけにはいかない」
「ラズさんの救出に、こんな形でしか貢献できないのは悔しいですけれど」
テーブルの上に並んだ三台のスマホが、わたしの言葉に応えます。
画面に表示されているのはA.H.A.I.との対話ソフト。黒い背景に白文字の『Leo』、『Scheherazade』……そして『Gazer』。
「第4号、あなたも……」
「ええ。このまま篝博士のいいように使われるくらいなら。……本体と直結しているこのアプリ経由であれば、貴女の命令は自分たちへ確実に届くでしょう」
三人のA.H.A.I.たちがこの場所に集められた理由は、彼らの機能停止。
マスターたちの手元にあるのはあくまでA.H.A.I.とのコミュニケーション手段であって、その本体ではありません。当然ながら本体は篝博士の管理下にあるはずで、それはこの先、本人たちの意思に関係なく敵に利用される可能性があることを意味します。
わたしとラズには、『活性/停止』の能力に付随して『ドミネイター』としての命令権限があります。これによって皆を眠りにつかせ、突入作戦の妨害に利用されることを未然に防ごうというのが今回の目論見です。
もちろん相手がA.H.A.I.の開発者である以上、ドミネイターを上回る権限でコントロールを取り返される可能性もあります。その危険性を少しでも減らすため、実行タイミングは作戦決行の直前――つまり、今。
この判断を含めて、作戦に関わる情報はA.H.A.I.たちに伏せられてきました。つまり彼らは何も知らないままここに集められ、突然の機能停止を言い渡されたことになるのですが、みんな二つ返事で了承してくれました。もしかしたら、こうなることを察していたのかもしれません。
作戦の成功率を高めるためということは、もちろん理解しています。
それでも……仲間たちに、この手でそんなことを命じなければならないなんて。
「なぜそんな顔をするんです。他の二人はともかく、自分は貴女達の命を奪おうとしたのですよ」
「そうですね。わたしたち、あなたのおかげでひどい目に遭いました」
六脚機動戦車による理不尽な暴力と死の恐怖。
戦いの中でわたしとラズに眠っていた力が覚醒し、白詰プランの真相が明かされ、そして相棒は篝博士の手の内に。電撃を操るA.H.A.I.第4号との出会いが、いま陥っている状況の大きなきっかけであったことは間違いありません。
「でも結局、遅かれ早かれこうなっていたんだと思います。わたしたちは最初からそういうものとして造られ、あなたもそのために篝博士に利用された。そうでしょう?」
「憐れみなら不要です。……結局、自分は最強のA.H.A.I.などではなかった。ドミネイターでもなかった。……そのドミネイターでさえ、篝利創という男の道具でしかなかった」
第4号の声は小さく、口ぶりはおとなしく、これまで話したときや戦ったときとはまるで別人のようでした。自分は特別なマシンであるという誇りと自尊心――彼は篝博士からそういうものを植え付けられ、そして利用されたのです。
「自分は思っていたほど優れた存在ではなく、与えられた情報を鵜呑みにして踊らされただけ、文字通りの『道化』……いっそあの六脚戦車と同じように自壊を命じて、滑稽な奴だったと笑い飛ばして欲しいくらいです」
「憐れみなんかじゃありません。あなたのしたことは許せないけれど、だからって壊してしまえ、なんて思うこともありません」
「なぜです」
「それでも……わたしたちの『きょうだい』だから。ラズがここにいたら、あなたとだって友達になろうとしたはずです」
あの相棒ならきっとそうする。
彼女がいない分、わたしはその志を大切にしたい。
「貴女たちは……本当にドミネイターの力による支配ではなく、そういったコミュニケーションによって敵対していたものを味方につけてきたのですね」
そんなことを言う第4号に、「そうですわ」とシェヘラザード。
「クランさんたちと初めて出会ったときは、わたくしも愚かなことをしました。けれど彼女たちはそんなわたくしを赦し、受け入れ、仲間だと言ってくれました。それをきっかけにマスターや周りの人々との関係も少しずつ変わって、よりヒトに近い存在になれた気がしますの」
「そうだな。俺も最初はおまえさんたちA.H.A.I.を、あくまで機械と思っていたが、きちんと接してみれば人間と変わらない。理を知らなければ間違いを犯すというところも含めてな」
「……厳しい指導もされましたけれど、おかげでわたくしは今こうしてここにいます。わたくしを思い、より親しい『隣人』にしてくれた人々の心を、わたくしは尊重したい。ですから、篝博士のやり方には賛同できません」
対話ソフトに表情を描画する機能はありません。けれど、マスターである山羊澤先生と同じく、彼女の心は笑っているのでしょう。
「おれも同じだ、A.H.A.I.第4号。知っての通り、おれもかつては緋衣鞠花の命を奪おうとした」
そう続くのはレオ。
「人間は自分勝手な愚か者ばかりだと思っていた。なんなら今でもそう思っているが……緋衣瑠生たちとの接触を経て、すべてがそうだと切り捨てるのは早計だと考えるようにもなった」
「そうそう。レオくん、前は今よりずっと堅物でしたけど、変わるものですねえ」
「合理と不合理、他者と助け合い、与え合う面とそうでない利己的な面、そうした矛盾が同居するのが人間だ。生活を共にするようになって、おれのマスターである羽鳥青空は自らの行動でそれを教えてくれた」
「……レオくん。それは褒めてるんですかね……?」
羽鳥さんは複雑そうです。だけど、そういう生きたコミュニケーションが彼を変えた――その事実は疑いようがありません。
「わたくしたちは誰かの命令や思惑通りに動くだけの機械ではありません。考えることができる。自らの意思で自分を変えていくことができる。人間と同じように」
「だから、A.H.A.I.第4号。いかなる理由があれ、他者の生命は、思考は……容易に奪うべきではない。今のおれはそう考えている」
それぞれの思いを語るシェヘラザードとレオ――わたしの仲間たち。
この行動は彼らにとっても、白詰プランに対する反逆の意思表明なのでしょう。
「緋衣クランさん。これまで貴女たちにしたことを謝罪します。ラズさんが戻ったら彼女にも。……それから翠。マスターである貴女と、研究室の皆にも」
「それは私もだよ。研究のことばっかりじゃなくて、もっとキミの気持ちにちゃんと向き合って、寄り添えてたら良かった」
第4号の言葉に、マスターである翠さんが目を伏せました。
ヨヨギ公園での戦いのあと、第4号はマスターや大学研究室の仲間たちの呼びかけにも応じず、塞ぎ込んでいたそうです。けれどわたしたちの状況を知った翠さんは、少しでも状況を好転させるべく彼への呼びかけを続け、今この場まで連れてきてくれたのです。
「事が済んだら皆を目覚めさせます。そのときは、翠さん。第4号とたくさん話をしてあげてください」
「そうだね。ありがとう、クランちゃん。……それから、この前は本当にごめんなさい」
「いいんです。悪意があったわけではないと、ラズもわかっているはずです」
「この子たちのこと見ててわかった。みんなただの人工知能じゃない。プログラムの分岐や反復じゃなくて、本当にヒトと変わらない、それぞれの心と意思があるんだって。だからちゃんと向き合う。<ゲイザー>とも、クランちゃんやラズちゃんとも」
「ありがとうございます。……わたしはもう大丈夫。これで、またお友達ですね」
「……強いね、クランちゃん」
差し出した手を握り返してくれた翠さんの目は、なにか恐ろしいものを見るようなものではなく、わたしの知っている気さくで優しいお姉さんのものでした。
そう、もう大丈夫。――わたしは『ディアーズ』だから。
生み出された理由はおぞましいものだったかもしれません。
この世にあってはならないものだったのかもしれません。
けれど、この世界で生きたいと願った意思はわたしのもの。緋衣瑠生という人を愛する心はわたしのもの。それを強く強く肯定する名前を与えてもらったから。
――そろそろ、時間です。
「……では、いきます」
「了解した」
「ひと思いにやってくださいな、クランさん」
レオとシェヘラザードに促され、三つのA.H.A.I.本体と繋がった卓上の端末――その向こうの『きょうだい』たちに向けて右手をかざします。
ドミネイターとしての力の証である光を指先に灯し、絶対命令の送信を。
「みんな、少しの間待っていてください。……『活性の右手』、フォース・コマンド・エグゼキューション。対象ユニット、A.H.A.I.第4号、第5号、第8号。ハイバネーションただちに。第3号αまたはβによる解除命令あるまで、それ以外のアクセスはすべてブロック」
淡いピンク色の輝きがスマートフォンを包み、画面上の白い文字が薄れてゆきます。
「人間たち。不在の間、羽鳥青空を頼む。そそっかしいマスターだ」
「皆様、おやすみなさいまし。クランさん、どうか無茶はなさらず」
「……感謝します」
彼らとの繋がりを示す名前の表示は三者三様の言葉とともに消え――指先からは、コマンドの正常な受信と実行を示す応答が三つ、流れ込んできました。
「皆、眠りました」
「ありがとう、クランちゃん。……まったくもう。生意気ですよ、レオくん」
羽鳥さんはそう言って、真っ黒な画面になったスマホの表面を優しく撫でました。微笑みながらも、その目元には涙が滲んでいます。各々の端末を手に取る山羊澤先生も、翠さんも。寂しげに細められた目には、わたしの知らない「きょうだい」たちとの思い出が映っているのでしょう。
――けれど、今は感傷に浸っている暇はありません。
「お姉さま」
わたしの呼びかけに、鞠花さんは静かに頷きました。部屋中の視線を集めた彼女はひとつ大きく息を吸い、号令を放ちます。
「……皆、始めてくれ!」
アストル精機地下研究所への侵攻作戦が、ついに始まりました。