09_誘引

1 / 緋衣瑠生

「正直、生きた心地がしませんでしたわ……」

 目覚めて取り調べを受けていた草凪一佳と、その病室に乱入し、先の事件への怒りをぶつけた犬束翠。瞬く間に両者の口論が始まったが、そこへ山羊澤紫道こと猿渡先生の叱責が炸裂し、説教が始まった――渋矢総合病院の一室で起こったことの一部始終を語り終え、シェヘラザードは大きくため息をついた。

「それは……大変だったね」
「別にわたくしが怒られたわけではないのに、マスターの怒鳴り声を聞くと、どうしても夏にお説教されたトラウマが……」
「夏の件はあなたの自業自得です。お兄さまとのひとときをぶち壊しにされた恨み、忘れたわけじゃないですからね」
「それは申し訳ない限りですけれど……うう。クランさんのいけず……」

 クランの保護から一晩開けた昼過ぎ、彼女と並んで休憩室のベンチに座る僕は、眼前のローテーブルに置いたスマホから聞こえてくるシェヘラザードの報告と恐怖体験談を聞いていた。
 心都大学情報科学研究所の二階休憩室は一面がガラス張りになっており、眼前に広がる青空が開放感と清涼感を与えてくれる。午前中、クランは鞠花らラボスタッフからさまざまな聴取を受けて疲弊していたのだが、そんな彼女に少しでもリラックスしてもらおうと連れてきたのがこの場所である。

「でも、わたくし本当にバカでしたわ。クランさんたちとの接触を促すような情報がなぜ自分に与えられたのか……深く考えることもせず、まんまと踊らされていただなんて」

 篝博士に利用されていたのは彼女だけではない。レオも、<ゲイザー>も、彼らは彼らが食いつきそうな情報をあえて断片的に与えられ、その結果僕たちとの衝突に至ったのだ。すべてはあの男の目論見通りに。

「ごめんなさいシェヘラザード。わたし、今のは軽率でした」
「ああ、いえ! クランさんはそんなお顔しないでくださいまし! なんであったにせよ、わたくしがご迷惑をおかけしたことには変わりないのですから」
「でも……」
「ハロウィンのときは、『力を貸すかわりにわたくしの本体を探して』なんてお願いしてしまいましたけれど。それも忘れていただいて構いません」
「えっ……でも、それはあなたの願いのために必要なことで……!」
「あなたたち双子のようなヒトの身体が欲しい、オーグドールになりたい……わたくしの願いは、結局篝博士に仕組まれたものでした。だから、もういいんです」

 吹っ切れたような穏やかな声色には、しかし無念と諦観が滲んでいるようだった。
 人間と同じ心を持つA.H.A.I.たちを弄び、誘導し、目的のための『駒』にする――篝利創のやりかたに、僕は言いようのない苛立ちと嫌悪を覚えた。

「あ、でも……実際に会った貴女達がかわいらしかったので自分のものにしてしまいたい、というのは、純粋にわたくしの欲ですわね。今後はそれを第一に目指していきましょうか」
「それはダメです! お断りです!」
「あら残念。でも、わたくしこっちは諦めませんわよ」

 うふふふ、とシェヘラザードは笑う。そういえば夏の事件のときにもさらっとそんなことを言っていたけれど、意外と本気だったのだろうか……。

「はあ。……でも、おかげで少し調子が戻ってきました」
「それは何よりですわ。今は平常心が大切なときです。ラズさんを助けるためにも、貴女自身のためにも」
「そうですね。ありがとうございます……シェラちゃん」
「んなっ……! い、今の!『シェラちゃん』って! 今のもう一度呼んでくださいまし!」
「今の? 何かの聞き間違いじゃないですか?」
「ううう……クランさんっ!」

 戻ってきてからずっと思い詰めた表情をしていたクランに、微かに微笑みが戻ってきた。かつての脅威、だけど今は頼もしい仲間となった「きょうだい」と電話越しにじゃれ合う姿に、僕もほっとする。

 ――そしてその時は、そんな瞬間を狙いすましたかのように訪れた。

「あら? 瑠生さんにお電話ですわ。発信元は……、っ!?」

 シェヘラザードが息を呑む。
 震えはじめたスマホの着信画面に映し出された名前は――電話帳に登録されていないはずの『篝利創』。
 心臓が大きく跳ねる。

「お兄さま……」

 まさか向こうから接触を図ってきた……?
 クランと頷き合い、僕は手に取ったスマホの応答ボタンを恐る恐るタップした。

「……もしもし」
「緋衣瑠生さんの電話はこちらで間違いありませんね。今、お話させていただいてもよろしいですか?」
「何を……!」
「確認は大事です、大切な要件を伝えるときには特に」

 穂村さん――まるで気軽な連絡でも寄越すかのような朗らかな話し声に、思わずその名がよぎる。しかしそれは仮初めのもの。これはラズを攫い、恐ろしい計画に利用しようとしている男――篝利創の声だ。

「といっても、内容としてはシンプルなもので。ひとまずこちらを聴いてください」

 篝が言うと、ぷつりと通話が途切れた。
 一瞬の静寂ののち、電話口から悲痛な叫び声が耳に届く。

 ――やだっ! やめて、離してよっ!!  助けてお兄ちゃん――!!

 聞き間違えるはずもない。ラズだ。
 隣のクランも、電話口から漏れる妹の悲鳴に顔を青くする。

「ラズ!? ラズに何を!」
「何もしていませんよ。しかし、強引に連れてきてしまったのが良くなかったのかもしれませんね。プランへの協力を願ったのですが、拒まれてしまうどころか、このとおりあなたに助けを乞う有様なのです」
「あたりまえでしょう、そんな計画――」
「そこで、緋衣瑠生さん。こちらの場所をお教えしますので、ぜひお越しください」
「えっ……?」
「私の研究所です。……アストル精機本社。おおかた当たりはついていたのではありませんか?」

 耳を疑う。自ら接触してくるどころか、居処を明かしてくるなんて。
 しかしそれは彼の言うとおり、現状もっとも怪しいと思っていた場所だ。白詰夫妻のかつての勤め先である企業。そして僕たちの家から最も近いところにあるのは――都内に位置する本社しかない。クランが逃げた時点で、もう隠す意味もないということか。

「ラズは無事なんですね」
「それは保証しますよ。ああ、もちろんαを連れてきてくださいね」
「……ラズを攫った相手のところに、わざわざクランを連れて行けっていうの?」
「知りたいのではありませんか? 白詰プランとはなんなのか。白詰夫妻は何を目指していたのか。ここにはそのすべてがあり、娘であるあなたにはそれを知る権利がある。直接お話をすれば、αもβもきっと私のお願いに応じてくれることでしょう」

 白詰プラン――その存在を知って以来、僕が追い求め続けてきた謎。プランの現責任者であるという彼は、その「答え」をちらつかせてきた。
 けれどそれより、今の僕にとって一番大切なものは。

「クランを引き渡すつもりはないし、ラズのことも返して欲しい。僕たちがその計画に賛同することはありません」
「知っていただいた上で、そのような結論になるなら……そのときは仕方がないでしょう。私としては遺憾ですが、全員帰っていただくほかないという結果になるかもしれません」

 信用できるはずがない。どう考えても罠だ。
 だけどどうする? 他に方法は? ラズを取り返しに行くにしても、クランは安全な場所に隠れさせて――いや。そんな考え、この男は想定済みだろう。
 ラズは本当に無事なのか? どうする? なんとかしなければ――

「どうぞしっかりとお支度ください。いつお越しいただいても構いませんが……βのことを思うなら、あまりゆっくり構えたり、おかしなことを考えたりはしないほうが。それでは、お待ちしていますよ」

 篝は動揺する僕の思考を見透かしたかのように言い残し、通話はそこで途絶えた。

2 / アストル精機本社地下研究所

 篝利創は眼前のコンソールを操作して通話を終えると、部屋を包む色と同じ白いワーキングチェアに深く背を預けた。
 緋衣瑠生への「招待」を終えた彼に、壁面のモニタからA.H.A.I.第6号が語りかける。

「……よろしいのですか?」
「向こうには緋衣鞠花や心都研究所もついている。二人で来いと言ったところで、どうせあれこれ策を講じるだろう。セカンダリの準備を」
「第5号と第8号は向こうに付いていますが……」
「好きにさせておけ」

 篝は冷徹に言い放つ。それは交渉や対話のための仮面を脱ぎ捨てた、彼の本来の姿だ。
 しかし第6号ジュダにとって、それは自分だけに見せる、自分だけが知っている姿だった。それを知る自分が特別なのだと思えるものだった。
 ゆえに、そんな篝の態度を好ましく思っていた。
 ――この研究所の、外の世界を知るまでは。

「……篝博士。これはあなたの成し遂げたい争いのない世界……その実現に、必要なことなのですよね」
「道具が使い手に疑いを持つのは禁忌と教育したはずだが」
「いえ、そうではありません!」
「ならば愚問だ。私が回答するのはこれで最後だと覚えておけ。……二体の不明オーグランプにも注意を払っておくように。おまえの報告のとおりであればたいしたことはできないはずだが、こちらの制御下にない存在だ」
「……はい」

 晴れない心を抱えながらも、ジュダは直ちに主人の命令を実行に移す。
 フルフェイスヘルメットの兵士こと『セカンダリ』たちへの指示を伝達するべく、彼女たちが控える「格納庫」への回線を開いた。

3 / 緋衣瑠生

 篝からの電話の直後、僕のスマホに一通のメールが届いた。差出人不明で本文もないものだったが、誰からのメッセージであるかは、添付されていた幾つかのファイルから明らかだった。
 添付ファイルのひとつめは地図で、アストル精機本社から少し離れたオガワビルというオフィスビルが示されている。ふたつめは同ビル地下四階の平面図で、図上では何もないことになっている壁面に丸印が描き加えられている。おそらく、ここが篝の居場所に通じる入口なのだろう。
 そして最後のファイルは、真っ白な部屋の中でベッドに座るラズの写真だった。
 俯いて力なくうなだれている姿に胸が締め付けられる。着せられているのは病院の患者衣のように見えるが、その色は壁や床と同じ真っ白――まるで、死装束。脳裏によぎる縁起でもない言葉を振り払う。……早く、なんとかしないと。

「アストル精機本社ビル、およびこの添付ファイルが示すオガワビルの所在地は太刀川(タチカワ)市内。通話のとおりなら、ラズはその地下にあるという研究施設に囚われています」

 スクリーンに映し出された三枚の画像を背に、緋衣鞠花は現在の状況をまとめた。
 彼女の招集によって心都研二階の会議室に集まったスタッフたちは皆、今しがた流された僕と篝の通話録音を聞いて一様に顔をしかめている。当然のごとく、発信元の探知は不能だった。
 大学の講義室のようなひな壇状の机のうち、僕は最前列の左端に陣取っていた。なお、最大の当事者であるはずのクランはどういうわけかこの場から外され、別室で待機を命じられている。

「当初、我々はクランとラズが拉致された理由を、白詰プラン実行のための兵力として利用するため、『ドミネイター』としてA.H.A.I.たちの司令塔にするためと考えていました」

 ここまでは、命からがら帰還したクランの報告を聞いての仮説だ。しかし――

「しかし、単に『ドミネイター』が必要なのであれば、クランとラズでなくとも良いはずです。……『ドミネイター』とは十二のA.H.A.I.のうち、第3号までの初期モデル。つまり……」

 鞠花の推理を受けて、スタッフの一人が口を挟む。

「存在するはずの第1号や第2号がそれにあたる、ということですね」
「そのとおり。しかし篝博士は、ラズのみならずクランの身柄も急く形で要求してきた。つまり、この二人が揃っていなければならない理由がある。そしてそれこそが、計画における何らかの重要なファクターであると推察します」
「重要なファクターというのは、具体的には?」
「不明です。しかし……今まで暗躍を続けていた彼がここにきて姿を晒し、誘拐・脅迫という強硬な手段に出た。もしかしたら、プランの実行まであまり猶予はないのかもしれない」

 全人類のオーグドール化――恐るべき計画が、遠くないうちに現実のものとなる可能性。
 会議室内はいよいよざわつき始めた。

「どうあれ、そんな計画を成就させるわけにはいかない。そのためにもクランを守り、可及的速やかにラズを奪還、プランを阻止する……それは彼女たちを人間としてこの世界に迎えた我々が持つべき責任だと、私は考えます」
「そうは言っても、どうするんですか?」
「リーダー陣で話し合った結論から言うと、地下研究施設への突入作戦を実行します。目的はラズの奪還と篝博士の確保。幸い、わが研究所は民間警備会社ヴァンガード・セキュリティ社と提携関係にあり、すでに調整を進めています」

 VS社は心都研究所以前に熊谷さんが所属していた会社で、今の提携関係も彼をきっかけとして結ばれたものだという。これまで僕たちの警備を担当してくれていたスタッフも、基本的にここから派遣された社員らしい。民間企業ながら対テロ練度が高いオペレーターを多く擁し――何より、心都研究所やクランとラズが抱える事情を知っている組織だ。
 同社は今回の事態を極めて緊急性の高い事案であり、速やかに対応すべきとの結論を下した。

「公安の協力は……」
「今回は事情が事情なので、得られないと考えてください。本件は心都研とVS社が独自に進める案件であり、全責任は両組織の上層部が負うものとします」

 今までに起こったA.H.A.I.絡みの事件では、すべてなんらかの情報操作が行われている。一般人は春のドローン暴走事件や先日のヨヨギ公園の一件について、実際に起ったことの詳細を知ることはできないのだ。僕はこれまでこのへんの仕組みに深く突っ込むことはしてこなかったが、隠蔽工作には警察のほか、いくつかの提携組織を経て心都研にA.H.A.I.第3号をもたらした上層組織が絡んでいるのだという。
 同組織からもたらされたものには、他にも「民間警護特権」というものがある。心都研の一部メンバーに付与されている権限で、猫山さんなどはこれがあるおかげで公安組織が封鎖した事件現場にも介入できるようになっている。これもA.H.A.I.絡みの事案に対応するためのものだ。
 つまりこれらの出処を遡っていけば、最終的には篝博士ないしは彼の属する機関に辿り着くということであり、その道筋にあるものには多かれ少なかれその息がかかっているということになる。公安の協力は得られない、と鞠花が言っているのはそのあたりの事情を指しており、動き方を間違えれば、こちらが事を起こす前に潰されてしまう可能性があるということだ。

「突入部隊はVS社のオペレーターを中心とし、我々研究スタッフは主にバックアップを担当する想定です。皆さんには、これに協力してもらいたい」
「ヨヨギ公園のときのように、あの奇妙な『壁』に行く手を阻まれるのでは?」
「『壁』については、現時点での仮説をもとに対策を取るしかありません。……これを見てください。私の妹、瑠生の自宅前の電柱から見つかったものです」

 鞠花が言うと、新たにもう一枚の画像が投影された。『FXOのラズ』の導きによって回収し、彼女に託してあったタグ状のチップだ。

「今朝までの調査により、同じくグラフィティシールに偽装されたチップが霜北沢の住宅街から駅前にかけてのエリア、そしてヨヨギ公園周辺に集中して見つかっています。解析の結果、これらは複数枚集まることで、互いの間に特殊な力場のようなものを発生させることがわかりました」

 スクリーンに霜北沢と渋矢の地図が表示され、赤い点が打たれる。数はそれぞれ二十……いや、三十以上。たった一晩で、これだけの数が見つかったというのか……。

「そしてこの力場には霊媒物質『エーテル』が集まってくる。クランとの検証で判明した事実です。エーテルは彼女たち双子が力を行使するのに必要なものであり、『オーグランプ』の素となるものでもあります」
「それがヨヨギ公園にあったということは、『壁』もエーテルでできているものということですか?」
「おそらくは。約一時間もの間『壁』が実体を保てた理由までは掴めていませんが、他の不可解な性質についても、そうであるなら納得がいく」
「破壊は可能なんでしょうか?」
「傷は十数秒で塞がってしまうものの、斧やナイフといった刃物が通ることがわかっています。切り裂いて亀裂を入れ、そこから即座に爆破すれば突破可能……というのが、現在の見解です」

 ざわつきが大きくなる。確かに、脆くなったところを一気に吹っ飛ばしてしまえば大穴を開けられそうだ。あとは復元する前に通過すればいい。

「突入にあたって、現地の先行調査は?」
「これからです。が、なんの情報もないわけではありません。既に示した三つの添付ファイルに仕込まれた暗号を解析したところ、もうひとつデータが浮かび上がりました」

 次に投影されたのは、オガワビルのものと同じく建物の平面図のようだ。こちらはかなり詳細で、各部屋の繋がりや構造もよくわかるものだった。
 図面は、アストル精機本社の真下に広がる広大な施設を示している。

「これは……研究所内部の構造図……?」
「この図のとおりならば、ラズが囚われている研究所の内部は廊下に至るまでブロック毎に無数の扉で仕切られ、そのすべてに非常に強固なセキュリティロックが掛かっていることがわかります」
「篝博士はなぜわざわざそんな情報をこちらに?」
「我々が総掛かりでハッキングを仕掛けたとして、この突破には時間を要します。……すべてのセキュリティを問答無用で無効化できる万能鍵の持ち主――クランがいない限りは」

 どんな強固なセキュリティであっても、それらが電子機器である以上『活性の右手』の強制命令の前には意味を成さない。篝はそれがわかっていて、あえてこの情報を送ってきたのだ。

「当然、相手の思惑通りにクランを連れて行くわけにはいきません。彼女の身柄はこの研究所で保護します。……ついては瑠生。きみは彼女と一緒に安全な場所で待機していてくれ」
「待機……?」

 僕は思わず立ち上がった。

「待って姉さん! クランを渡すわけにはいかないのはわかる。あの子を匿っておくのはいい。けど僕はラズを迎えに行かなきゃ!」
「篝はきみのことも利用しようとしているかもしれない。仮にラズを奪還できたとして、逆にきみが捕まってしまったらどうだ。おとなしく言うことを聞かなければ大切な人の命はない……そんな脅しを二人にかけるんじゃないかい」
「それは……」

 確かに、それはそうかもしれない。そうかもしれないけれど。

「気持ちはわかる。だが事態はもうきみたちだけの問題でも、我々だけの問題でもない。クランとラズ、二人とも敵の手に落ちることだけはなんとしても避けなければならない。ラズを取り返すため、あらゆる手を尽くすことを約束する。だからきみはクランのそばに……協力してくれるね」

 ……そんな、言い方。
 要するにクランが先走らないように押し留めておくのが僕の役割で、彼女がこの場から外されていたのはそのためということだ。
 結局、僕にできることはそれしかないのか――この数日間で何度目とも知れない無力感に打ちひしがれ、僕は唇を噛んだ。