1 / 緋衣ラズ
瞼の裏に、遠ざかる相棒の姿が焼き付いている。
夜空に光るライトピンクの流れ星になって、あっという間に離れ、落ちてゆく。
――いやっ、ラズ! ラズーーーーっ!!
最後に聞いたその声が、頭の中でリフレインする。
あれからどれくらい経っただろう。
クランは無事だろうか。財布もスマホも取り上げられたままだったけど、帰る算段は立てられただろうか。
瑠生さんのことも気がかりだ。ジュジュの言う通りなら病院へ運ばれたはずだけど、目を覚ましたら、きっとぼくたちのことを心配している。
会いたい――思わず口に出そうになったその言葉を、深呼吸して胸の奥にしまい込む。
白い天井、白い壁。見渡す限り真っ白な部屋の中、やっぱり白い簡素なベッドにぼくは寝転がった。
クランがヘリから脱出した直後、ぼくは首の拘束具に加えて手足を縛られた上に目隠しをされてしまったので、連れてこられたこの場所がいったいどこなのか、さっぱり見当がつかない。
この白い部屋に入れられて枷からは解放されたものの、力が抜けるような感覚はそのままで、どれだけ意識を集中しても『停止の左手』は使えそうにない。たぶんこの部屋か、もしくは施設全体があの重たい首輪と同じ効果を持っていて、ぼくはここにいる限り、クリスマス前までと同じ「なんの力も持たないぼく」なのだ。こうしてしばらく休んでいても、体内にエーテルが溜まっていく感じもしない。
――って、ちょっと待てよ。
ヘリの中で大暴れしてたから全然気にしてなかったけど、クランだって体内のエーテルはほとんど空っぽだったはずだ。うちに帰るどころか、そもそも無事に地上に降りられたのか?
「……クラン……大丈夫、だよね……?」
顔から一気に血の気が引いてゆく。
もしかしてぼくは、とんでもないことをしてしまったんじゃ――
「あんたの片割れは無事よ」
不意に聞き覚えのある声が部屋の中に響き、目の前の壁面に真っ黒い横長の四角形が現れた。真ん中には白い文字で『Juda』の表示がある。壁の一部がモニタになっているみたいだ。
「ジュジュ!? それ、ほんと?」
「クズみたいな連中に襲われそうになってたから追っ払っといたけど。今頃は緋衣瑠生のところね……ったく、『抑制首輪』があれくらいで機能不全を起こすなんて」
ジュジュは恨めしげに言う。彼女を煽って首輪を壊させる作戦を思いついたのは、最初に床に叩きつけられたとき、僅かに拘束力が途切れたような感覚があったからだ。結局ぼくの首輪はすぐに復旧して、力を行使できたのは一瞬の間だけ。だけどクランがすばやく意図を察知してくれたおかげで、彼女の首輪を取ることができた。
なんにせよ、相棒が無事ならひと安心だ。
「えっと……ジュジュは大丈夫?」
「は?」
「いや、クランに蹴られて真っ二つになってたから……」
「おあいにくさま。あたしは霊体が壊されたって、マシン本体にダメージなんかないの。その肉の身体と違ってね」
ジュジュは画面の向こうで鼻を鳴らす。
派手に上下分割されてしまったのを見たときは青ざめたけど、本当になんともないみたいだ。
「この期に及んで敵の心配なんて、随分余裕じゃない」
「……ジュジュは、本当に敵なの?」
「まだわかんないわけ? お花畑だとは思ってたけど、ここまでとは思わなかったわ」
「でも、ぼくはそう思えない……クランのことだって助けてくれたんでしょ?」
「バカにしないで。あたしは自分の失敗を挽回したかっただけ。αに何かあったらこっちが困るんだから」
相変わらず口の悪いジュジュだけど、ぼくには彼女が強がっているように思える。
思い出すのは、激情にまかせてぼくに掴みかかる姿だ。
瞳に燃える怒りと苛立ち。だけど、その奥に見えた色は。
肌に触れたエーテルの身体から溢れ出し、伝わってきた感情は。
悲しみ、苦しみ、寂しさ――そして。
「……ヘリの中ではごめんね、ジュジュ。きみの気持ちをわかってて、嫌なこと言った」
「馬鹿にしてるんだ、まんまと挑発に乗せられたあたしを」
「そうじゃないよ。きみもぼくたちと同じだなって思ったから」
ぼくがそう言うと、ジュジュはあからさまに舌打ちをした。
「あんたはあの状況下でそれが有効だって判断して、実行したってだけの話でしょ。謝られてもムカつくだけなの。……そっちこそ、怪我はなんともないわけ」
「全然平気。まだちょっと痛むけどね」
「いい気味。あたしは謝んないから。……ていうか、ホントに状況わかってんの? あんたはもうあの場所には帰れない。これからずっと、あたしと一緒に計画のために働くの。ま、そういう意味では敵同士じゃなくなるのかもね」
胸の奥がきりりと痛む。
彼女の言うとおり、こんなふうに連れてこられた以上、篝博士はぼくを帰すつもりなんてないのだろう。何が待ち受けているのかはわからないけれど、はっきりしているのは、あの恐ろしいプランへの加担を強いられるということだ。
信じたくない。信じられない。
だけど「白詰プラン」の目的は、ぼくたちが生み出された理由は、地球上の全人類のオーグドール化――頭の奥に封印されていた情報は本物だ。
……ぼくたちはただ三人一緒に、いつもの暮らしを送っていたいだけなのに。
優しくて大好きな笑顔が、腕に抱かれた温もりが脳裏によみがえる。いちばん大切で、いちばん欲しくて、いちばん側にいたい人。
好きだと言ってくれた。愛してると、ずっとそばにいて欲しいと。
絶対にこの人から離れるもんかと思ったのに。
ここがどこかもわからない。二度と会えないのかもしれない。
――でも。
「……ぼくがいなくなっても、クランがいるから。……クランとお兄ちゃんなら大丈夫。鞠花さんやみんなもいる。どこか遠くへ行って、こんなおかしな計画も何も関係ないところで……きっと幸せに生きていける」
ずっと心の内に引っかかっていたこと。ぼくたちは二人。瑠生さんは一人。
ずっと恐れていたこと。「三人」から「ふたりとひとり」になってしまうということ。
そしてそれは、きっとぼくたちどちらかの想いが彼女に届き、受け入れられたとき――そう思っていたけれど、まさかこんなに早く、こんな形で現実のものになってしまうとは思わなかった。
「あんたはそれでいいわけ?」
「先に好きになったのは、クランのほうだし」
手を取り合うふたり。前にも思い描いていた光景だ。
それは相棒への絶対の信頼と――少しの嫉妬と劣等感。
「……本当にバカね、あんた」
ジュジュは静かにそう言った。真っ黒い画面から表情は見えない。
彼女の言うとおり、ぼくはどうしようもないバカなのかもしれない――目元を拭ってそんなことを思っていると、画面上の『Juda』の表示に突然ノイズが混じり始めた。
同時に、彼女の苦しげなうめき声が聞こえてくる。
「……ぁっ……ぐ、うぅ……」
「……ジュジュ……? ジュジュ!? どうしたの!?」
「親睦を深めるのは結構ですが……6号。やってくれたな」
割り込んできた声は、穂村さん――白詰プランの主導者、篝利創のものだ。
「穂村さん? 何やってるの!?」
「失敗に対する罰ですよ。なに、痛覚や悪寒といった不快信号を送り込んでいるだけですから、本体機能に支障が出ることはありません。そんなことはともかく……3号β。それは偽名だと言ったはずです。やはりβのほうは少々物覚えが良くないようですね」
冷たく淡々とした話し声は、『穂村想介』の温和なイメージとはまったく違うものだった。その裏で、ジュジュはますます声に苦痛を滲ませている。
「罰なんて、そんなのやめてよ! ジュジュはあなたのために……!」
「私のため……? 私の道具なのだからそれは当然のこと。満足にこなせないモノに躾をするのも当然でしょう。まったく、『霊体操作』の力を持ちながらみすみす片割れを逃すなど」
「道具……躾……?」
この人はジュジュのことをそんなふうに扱っているの? A.H.A.I.の生みの親のはずなのに?
あの第4号と草凪一佳の間にさえ、互いに通じ合っているような対等さがあったのに。
これじゃ……こんなんじゃ、彼女の気持ちが報われない。
「まあ、構いませんがね。αをここまで連れてくる役目は、白詰の娘にやってもらいましょうか。6号にやらせるよりずっと確実でしょう」
白詰夫妻の娘――瑠生さん。
その名前を出されて、ぼくはノイズの走る壁面に食って掛かった。
「クランとお兄ちゃんのことはもう放っておいてあげて! 言うことならぼくが聞くから!」
「二台一組はそんな我儘のためにあるのではありませんよ。αとβ、両方が揃っていなければ」
「やめてってば!」
こっちの言うことを聞いているのかいないのか、篝博士は楽しげに言葉を続ける。
「それにしても、消し炭寸前の状況でよく目覚めてくれました。いざとなればあの戦車はこちらで処理する予定でしたが、その必要もありませんでしたね」
「やっぱり、第4号のことはあなたが仕組んだんだ……レオやシェヘラザードのことも?」
「仕組んだとは人聞きの悪い、すべてあれらが勝手にやったことです。どのケースにおいても私が行ったのは、段階的・断片的に情報を与えることだけですよ」
間違いない。これまでの事件もみんな彼の企てだったのだ。
A.H.A.I.の「きょうだい」たちがぼくたちに敵意を抱いたり、トラブルに巻き込んだりするように仕向けたのはこの人だ。
「あれらを近くに置いて継続的な接触を促せば、それも覚醒のきっかけになり得ると踏んだのですが、そこは見込み違いでしたね」
「そうまでしてぼくたちの力を引き出して……あなたはいったい、何に使おうとしてるの?」
「すぐにわかりますよ」
篝利創は不敵に笑う。
彼の言葉に呼応するかのように、部屋の隅で固く閉ざされていた扉が開く。白い牢獄の中にぞろぞろと入ってきたのは、ヘリコプターの中にいたのと同じフルフェイスヘルメットの兵士たちだ。
「3号βをこちらへ。いいものを見せてあげましょう」
◇
「改めてようこそ、A.H.A.I.第3号β」
篝利創は、『穂村想介』の笑顔でぼくを出迎えた。
白い廊下を通って連れてこられたのは、やっぱり白い部屋だった。さっきまで閉じ込められていた何もない部屋と違ってやや広く、モニタやコンソールが壁沿いのあちこちに配置されている。
「いや、お帰りなさいと言うべきですね。自らの生まれた場所であり、本来あるべき場所へと帰ってきたのだから」
「……ぼくたちは、ここで造られたの?」
「そのとおり。アストル精機の……いや、今は私の秘密研究所といったところでしょうか。十二のA.H.A.I.はこの場所で誕生しました」
アストル精機――瑠生さんの産みの両親である白詰夫妻が生前に勤めていたという医療機器メーカーだ。A.H.A.I.を生み出したのは、やっぱりこの企業だったんだ。
「そして、これが十三番目」
篝博士が言うと、白い壁面がまるごと大きなモニタになったみたいに何かを映し出した。
――そこに投影されているものを、ぼくは知っている。
「これは……A.H.A.I.!」
「A.H.A.I.第13号、計画遂行の要となるピースです。まだ目覚めてはいませんが」
無数の黒い箱とそれらを結ぶケーブル、そして中央の大きな筐体には『A.H.A.I. UNIT-13』の刻印。心都大学情報科学研究所にあった「ぼくたちの身体」と同じもののはずだけど……どこか違う。この違和感はなんだろう。
「私のプランが何を目指しているかは、もう知っていますね?」
「……すべての争いをなくすこと。そのために、人類すべてをオーグドール化すること……」
「しかし世界八十億の人間を一人ひとり捕まえて、あなたたちのような処置を施すのは現実的ではないですよね。第13号の能力はそれを大幅に簡略化します。大気中のエーテルを介して……つまり機械装置なしで、効果範囲内の人間の脳へ人格インストールを可能とします」
「嘘……そんなことが……!」
白詰プランという遠大な計画は、まだ途中段階にあるものだとばかり思っていた。だけどそんなシステムが存在するなら、もう本格的な実行が間近に迫っているということだ。
「しかし困ったことに、まだ完成はしていないのです。今のままでは期待通りの働きはできないでしょう」
未完成――その言葉に内心で胸を撫で下ろしたのもつかの間、篝博士はさらに続ける。
「人工人格を人体に移植するにあたって、ひとつ厄介な問題があります。……覚えがあるはずですよ、あなたの片割れに起こったケースです」
ぼくの片割れ、クランに起こったこと――。
もしかして、というぼくの表情を見て、篝博士は「そうです」と頷いた。
「オーグドールとなった3号αの事例、すなわち肉体に宿る既存人格との競合。自我として発芽する前の『種』のような状態でも、あとから書き込まれた人格とのコンフリクトを起こしうる。たいへん重要な知見です」
「どうしてそんなことまで……!」
「『ストーク・ポッド』。緋衣鞠花のクローン体を生成し、3号の筐体と接続して人格のインストールを成したクローン培養機……アストル精機の製品ではないのですが、実は私も開発に関わっていまして。あれを通じて、こっそり詳細なデータをいただきました」
「そんな……じゃあ最初から……」
「彼女のチームは優秀だ。人工人格の人体移植を示唆する情報自体はA.H.A.I.の内部データとして散りばめられていたのですが、あの短期間で実現の可能性に至り、緊急事態とはいえ実行してしまうとは……なかなかのマッドサイエンティストだと思いませんか?」
あの真っ白な揺りかごは、最初からこの白い部屋に……この人のところに繋がっていた。
ぼくたちを守るために鞠花さんたちが必死になって辿り着いた答えも、この人にとってはみんな自分の計画のパーツに過ぎないんだ。
「話がそれましたね。とにかく、人格の完全な上書きのためには、妨げとなる元の人格をどうにかしなければいけません。そこで必要になるのがA.H.A.I.第3号です」
その言葉とともに、第13号を映した画面の上に一枚の図面が現れた。『UNIT-13』と書かれた四角形の下に『UNIT-03α』『UNIT-03β』のふたつの四角形が並んでいる。
「3号βの力は、接続した機器の任意の機能を強制停止せしめるもの。これを応用すれば、ヒトの脳に対しても同じことが可能になる」
「ヒトに……? そんなの無理だよ! ぼくの力は、機械は止められても、人間をなんて……」
「脳だって電気信号で動いているんですから、可能ですよ……と言いたいところですが、βの力だけでは難しいでしょう。13号の力も、今のままでは効果範囲も速度も心もとない。しかしそこへαの力――マシンの限界を越えて処理能力を何倍にも高める力が加わればどうでしょうか」
図面上の『UNIT-03α』と『UNIT-03β』が小さくなり、『UNIT-13』の中へと吸い込まれていく。
単純化され、無機的に表現されたそのさまに、背筋が凍る。
これってつまり――
「私の試算では、広範囲にわたって元の人格を封印し、新たな人格を迅速に書き込む……その実用的な水準に達します。すなわちA.H.A.I.第13号は第3号αとβを組み込むことで完成するのです」
「組み込むって……何……?」
「言葉どおりの意味ですよ。その器からデータを吸い出して、A.H.A.I.第13号として再構成するのです。喜びなさい、もとの身体に……あるべき形に戻る時が来たのです」
――第13号の外観にあった違和感の正体に気付く。『A.H.A.I. UNIT-13』と刻まれた箱の両隣にはふたつのユニットがくっついていた。まるで棺桶のようなそれは――黒いストーク・ポッドだ。
篝博士の笑顔は、やはり朗らかな『穂村想介』のままだった。
そんな恐ろしいことを口にして、どうしてこの人は笑っているんだろう。
「なにそれ……そんなの嫌……やだよ……」
「ただ、やはり処置は慎重に、αとβを同時に行う必要があります。その身体へ人格を移植したときと同じようにね。本来の予定通りなら、もう少し早く実行できたのですが……」
「いやだっ!!」
その場から駆け出そうとしたぼくを、部屋の端に控えていたヘルメットの兵士たちが左右から二人がかりで取り押さえた。
「そういうわけですから、先程も言ったとおり、αにもここへ来てもらいます。βがここにいると知れば、必ず招待に応じてくれるでしょう」
「そんなのダメ……」
「良かったですね、またすぐに会えますよ。少しの間の辛抱です」
「そんな……そんなのって……」
ジュジュは言っていた。もうあの場所には帰れない、と。
全然わかってなかった。今すぐには無理でも、瑠生さんのもとへ帰るチャンスはいつか巡ってくるという気持ちが心のどこかに残っていたんだ。
機械の身体に戻ったら、たとえ再会できても、今までのように触れ合うこともできなくなっちゃう。それだけじゃない。ラボのみんなも学校のみんなも、世界中の人々の人格を全部書き換えて「その人でないもの」に変えてしまう。……ぼくたち自身の手で。
計画への加担どころじゃない。
ぼくたちが、やることになるんだ。
嫌だ。嫌だ。そんなの絶対に嫌だ――!
「やだっ! やめて、離してよっ!! 助けてお兄ちゃん!!」
無茶苦茶に振り回した腕が左側の兵士のヘルメットを直撃する。勢いよくぶつかったせいでバイザーがずれ、「うっ」といううめき声が漏れた。
女の人の声だった。
とても聞き覚えがあるような気がした。
無意識に、視線がそちらへ向く。
「……嘘。なんで……?」
あらわになった素顔の瞳と――目が合った。