06_回顧

1 / 緋衣瑠生

『そうしてゼウスはポルックスの願いを聞き届け……二人の魂は天に昇って、美しいふたごの星になったのです――』

 ふたご座の神話、最後の一文が読み上げられる。
 その途中から母の声が掠れているのを、僕は彼女の腕の中で聞いた。

『ママ泣いてる? ……ごめんなさい。るい、もうえほん読んでっていわない』
『ううん、いいの。瑠生、あなたのせいじゃないの』

 そう言って母は、優しく僕を抱きしめる。

『やあ、ただいま。……どうしたの?』
『お帰りなさい。大丈夫、なんでもない』

 そこへちょうど父が帰ってくる。その表情と声色は少し疲れた様子だ。

『パパ、おかえり!』
『よしよし、瑠生もただいま』
『……誠一くん、顔色が良くないよ。ずっと徹夜続きでしょう』
『これくらいどうってことないよ。今は目指すべきところがはっきりしているからね』
『わかっているけど、それでももう少し――』

 なんだっけ、よく思い出せない。
 二人は優しく僕の頭を撫でながらも、何か難しい話をしていたような……。

 常夜灯が照らす暗い部屋で目を覚ます。
 ラボに到着し、仮眠室のベッドにクランを横たえたところで少し落ち着いた僕は、彼女と一緒に眠ることにしたのだったが。

 ――そうか。あのあと、父さんが帰ってきたんだっけ。
 ――あれ? このとき他にも誰か……訪ねてこなかっただろうか?

 幼い頃のかすかな記憶は、微睡みとともにふたたび闇の中へ。
 こんな夢を見たのは、誠一と結愛のことを考えていたからだろう。二人はなぜ、あんな恐ろしい計画を立ち上げたのだろう。クランとラズを、A.H.A.I.たちを生み出したのは、そんなことのためだったのか。全然納得できない。何も腑に落ちない。

 あのとき、結愛が読んでくれたのはふたご座の神話――カストールとポルックスの物語。
 先日、旧友・犬束翠の研究室で、A.H.A.I.第4号<ゲイザー>と話したときにもその名前が出てきたのは記憶に新しい。まさかそこから、クランとラズが自分の力にゲームの必殺技みたいな名前をつけるとは思っていなかったけど。
 活性と停止。ふたつでひとつの力。それを二人に与えることを考えたのも、僕の産みの両親なのだろうか。疑問とモヤモヤが頭の中を巡る中。

 ――あ、お兄ちゃん起きちゃった――?
 ――もう! ラズが騒ぐからだよ――。

 そんな声が聞こえた気がして、がばりと身を起こす。

「ラズ!?」

 だけど右隣を見てみても彼女の笑顔があるわけはなく、思わず額に手を当てた。

「……くそっ」

 ……自分が心底嫌になる。またあるはずのない現実逃避をして。
 ふと、そこで違和感に気付く。

「……クラン?」

 左隣で眠っていたはずの彼女までもが見当たらない。まさか、寝ている間に連れ去られたのでは――背筋がひやりとする。
 しかし、今この施設の中であの子が行きそうな場所には、ひとつ心当たりがあった。

2 / 緋衣クラン

 わたしの魂は人造物。わたしの身体はお姉さまの借り物。
 わたしは超常の機械として生まれた。だけど、今の器は人間。
 わたしはヒトであってヒトでない『オーグドール』。――そして。

「……良かった。やっぱりここにいた」
「あっ、お兄さま」
「寝てなくて大丈夫?」
「少し元気になりました。……ごめんなさい、心配させてしまって」

 わたしはあなたに――緋衣瑠生から『ディアーズ』という新たな名前を授かった。
 探し当ててくれたことに少し嬉しくなってしまうけれど、ああいったことがあった直後に勝手にいなくなったことは反省です。

 ここは心都大学情報科学研究所の地下、セキュリティゲートをくぐった最奥の大部屋。
 今は半ば物置と化しているという部屋の一角、目の前に敷き詰められているのは、高さ二メートルほどの黒い箱――わたしとラズのかつての身体、A.H.A.I.第3号の本体です。もっとも、ラボスタッフのみなさんに解体されたのち、神川機関の強襲によって中身のパーツを根こそぎ抜き取られてしまったので、今ここにあるのは外装ボックスだけ。文字通りの抜け殻ですが、それから一年以上が経過した今もこの場所に残されていたのでした。
 そっと表面を撫でると、当時のことが鮮明に思い出されます。意識の芽生え、鞠花さんやラボの皆さんとの出会い、そしてお兄さまとの邂逅。

「すぐに戻るつもりだったんですが……少し、考えごとをしていました」
「考えごと?」
「はい。わたしたちはどうしてこんなふうに造られたのか……覚えていますか? シェヘラザードの事件があった日、お兄さまが言ってくれたこと。人がなにかをつくりだすということは、誰かの幸せを願ってすることだと」
「……そうだったね」

 真夏の事件が片付いたあと、真宿のデパートの屋上で、お兄さまはわたしにそんな話をしてくれました。A.H.A.I.はきっと誰かの役に立つため、助けになるために造られたのだと――それはあのときの彼女の心からの言葉で、わたしもそれを疑うことはありませんでした。

「ごめん、クラン。僕はなにもわかってなかった」
「そんなことないです。あのとき、お兄さまは『生まれた理由に従うよりも、自分の好きなように生きてほしい』とも言ってくださいました。わたし、嬉しかったです」

 自分たちはなぜ、ヒトの心を模してつくられたのか。シェヘラザードとの出会いを通じ、疑問を抱いたわたしにとって、その言葉は心の支えの一つになりました。相棒と離れ離れになっても立ち上がれたのは、めげずにお兄さまのもとへ帰るという意思を持ち続けられたのは、そのおかげかもしれません。

「ヘリコプターから落ちて、お財布もスマホも、右手の力もなくしたまま、知らない場所にひとりで降りて……わたし、怖かったです。心細かったです」

 しんしんと雪の降る中をひとり歩く冷たさ。四肢の先からじわじわと身体の中心に氷が侵食してくるような感覚。そこかしこに点在するコンビニのおかげで凍えきらずに済んだけれど、落ちた場所が都内の市街地でなければどうなっていたか。
 ひとりきり、不安と緊張でいっぱいで、夜が明けないまま何日も何日もさまよっているかのような気分でした。

「交番に助けを求めようかと思いました。……でも、ヨヨギ公園で起こったことは揉み消されてしまうと、ジュジュが言っていたのを思い出して。警察に駆け込んだら逆に捕まってしまうんじゃないかって、怖くなって。そう思ったら街を歩いている人たちの目も、全部が怖く感じて」

 思えば、真夜中にわたしのような子供がうろついていたのだから、通行人からの奇異の目も当然だったのかもしれません。だけどそれは今だから言えることであって、そのときのわたしは形のない恐怖にすっかり支配されていたのです。
 今すれ違った人は篝博士の手下で、もうわたしの居処なんてとっくに筒抜けなのではないか。
 あそこに立っている人も、実はジュダが差し向けた追手なのではないか。
 そこの建物の陰から、いきなりあのヘルメットの兵士が出てくるのではないか――と。

「大丈夫だよ、クラン。もうきみは戻ってこられた。本当にひとりでよく頑張ったね」
「……ありがとう、お兄さま……」

 瑠生さんの手のひらが頭の上にそっと置かれ、肩の力が抜けていきます。柔らかであたたかい、こわさないように包み込むようなこの人の撫で方が、わたしはとても好きです。

「さっきは話せませんでしたけど……お兄さまが迎えに来てくれる少し前、怪しい人たちに本当に襲われそうになったんです」
「なっ……!」
「あっ、えっと! 大丈夫です! それは結局大丈夫だったんです、本当に」

 一気に殺気立ったお兄さまに、わたしは思わず両手をあたふたと振ってしまいます。
 夜が明けて日が昇り、霜北沢を目指して歩き続けていたわたしは、人通りの少ないビル街の路地裏で座って休むことにしました。篝博士の追手が現れるかもしれないから、人目につかないところで……だけど、それが良くありませんでした。

「疲れてうずくまっているところに、いつの間にか三人組の男の人が来て。ニヤニヤ笑いながら、わたしを取り囲むみたいに」
「本当に大丈夫? よくそこから逃げられたね……」
「それが、ええと……助けられたんです。『リザードローグ』に」
「……はい? リザードローグって……あのリザードローグ?」
「はい。目の前にいきなり現れて、ぐわーっと吠えて威嚇して、男の人たちは驚いて逃げていきました」

 リザードローグというのはFXOに登場するモンスターで、短剣で武装したトカゲの獣人です。言うまでもなくゲームの中の架空の存在で、そんなものが現実にいるはずはないのですが。

「たぶん、わたしを導いてくれたあの『クラン』が姿を変えて助けてくれたんだと思います。あれもジュダと同じオーグランプなら……」
「ああ、なるほど……いろんな姿に変身できても、おかしくはないか」
「わたし、そこで気が抜けて少し眠ってしまったんですが……雨で目を覚ましたら、目の前に彼女がいました」

 そうして雨に打たれながらも白いローブ姿の自分の分身を追いかけ、わたしはお兄さまとの再会を果たすことができたのです。

「おかげでわたしは今こうしてここにいます。だけど夜通し怯えながら歩いて、実際に悪い人にも遭遇して……わたしはもともと臆病者ですけど、それでも人間をあんなに怖いと感じたのは今回が初めてです」

 目を伏せるわたしを、お兄さまは「うん」とだけ言って抱き寄せてくれました。今にも震えそうにこわばった身体が、大好きな温度とにおいでほぐれていくのがわかります。

「わたし、白詰プランの思想が少しだけわかる気がします。……人は、怖いです。人を怖がる自分の心も怖いです。きっとこういうものがあるから、人は争ったり傷つけ合ったりするんですね」
「それなら、みんなの心を全部同じにしてしまえばいい……確かに、そうかもしれないね」

 妬み嫉み、嘲り蔑み、恨み憎しみ。そういった負の感情の根源には、きっと恐怖があるのです。この世すべての人々が互いにそんな思いを抱くことなく生きられたら、それはひとつの理想といえるかもしれません。

「でもだめです。この計画が現実のものになれば、こうして抱きしめてくれるあなたの優しさもなくなって、わたしの好きなあなたでなくなってしまう。お姉さまも、猫山さんも熊谷さんも羽鳥さんも、みんなみんなその人ではなくなってしまう」
「……そうだね」
「わたし、この力があるとわかったとき、嬉しかったんです。あなたを守るための力が、いつもあなたと繋いでいたこの右手にあらわれたのが誇らしかった。『オーグドール』ではなく『ディアーズ』としての、あなたとの絆の証だと思った。あの戦車と戦うのだって少しも怖くなかった」

 わたしは左利き、ラズは右利きです。けれどわたしたちの力は、それぞれの利き手とは反対側――いつも瑠生さんと繋ぐほうの手に発現しました。そのときはそれがたまらなく嬉しかったのに。

「でも今は……どう受け止めていいのかわかりません」

 白詰プランの産物としての自分を。発現した力を。課せられた役割を。
 今度こそ震え始めてしまったわたしを、お兄さまは強く、強く抱きしめてくれました。
 バラバラになってしまいそうな心を、繫ぎ留めるように。