1 / 緋衣瑠生
「そうしてラズは、そのまま連れて行かれてしまいました。あのとき、わたしが油断していなければ……」
クランが語った顛末は、まさしく命からがらの大脱出だった。今にもこぼれそうな涙を必死でこらえる、悲痛な面持ちに胸が痛む。……彼女がうわごとのように幾度も口にしていた通り、ラズは己の身を顧みずに姉を助けたのだ。僕は怒りと悔しさに唇を噛みつつも、その行動をラズらしい勇気に満ちたものだと思った。
「クランちゃん、ヘリに乗ってたんですよね? そんな高いところから落ちたんですか?」
「はい。能力を使えば、着地の衝撃を相殺すること自体は難しくありません。こう、ロケットの逆噴射みたいなイメージで」
羽鳥先輩の心配はもっともだ。僕だって聞いていてヒヤリとした。
ヨヨギ公園での戦いで、二人の能力の片鱗はすでに目にしている。ラズはあのアレキサンダーとかいう鋼鉄の化け物のキックを利用して数十メートルの高空へ飛び上がり、さらには落下軌道を変えて追撃をかわし、土煙をあげて激しく落下する戦車にとりつきながら、まったくダメージを受けずに降りてくるという芸当を見せた。
クランが経験したヘリの高度からの落下はその何倍にもなる。少なくとも地上数百メートル――それだけの高度からの落下さえ防いでしまう力が彼女たちに宿っていて、さらにはそれが『活性の右手』『停止の左手』を行使するための付随能力にすぎないなんて。
「だけど、その力はそれきり使えなくなってしまいました」
「力を失くしちゃったの?」
「いえ。一時的なものみたいで、今はある程度回復しています」
僕の問いかけに、クランは右手の人差し指にピンク色の淡い輝きを灯してみせた。
「わたしたちの力の行使には、基本的に周囲の空間にある『環境エーテル』を使います。だけどそれとは別に、必ず体内に蓄積された『体内エーテル』を消費します」
「そのふたつはなにか違うの?」
「えっと……そうですね。環境エーテルは、そのへんに浮かんでいて誰でも自由に使えるリソースだと思ってください。だけどそれを自分のコントロール下に置くためには、自分の『体内エーテル』と結びつける必要があるんです」
以前にA.H.A.I.第6号から聞いたところによれば、エーテルというのは大気中に存在する霊媒物質……らしい。目には見えないが、大気中にはヒトの意思や魂などが乗りやすい部分があって、そこに意識を投影した生き霊のようなものがオーグランプという話だった。
クランとラズが能力を発揮するのにも、このエーテルとやらが欠かせないようだ。
「ゲーム的に言うと、どれだけフリーに使えるMPタンクがあったとしても、それを使うには毎回自分自身のMPをいくらか支払わないといけない、みたいな?」
「あ、そうです。そんなイメージでいいと思います。あの首輪をつけられると、環境エーテルへの干渉ができなくなるのと同時に、自身のMP……体内エーテルがどんどん削られるんです。わたしは首輪が外れたとき、ほとんどすっからかんの状態だったんですが……」
「周囲のエーテルでMPを補完したから、力は使えたってことか」
「だけどそういう無理をしたおかげで、わたしの体内エーテルは底をついてしまいました。そうなるとスタミナゲージがオーバーヒートしたみたいに、能力そのものがしばらく使えなくなっちゃうみたいです」
僕がゲームの戦闘リソース管理に例えたせいか、クランまでゲーム用語で話し始めた。そのへんの娯楽に理解のある鞠花はうんうんなるほどと頷きながら聞いていたが、羽鳥先輩や猫山さんはそこまでピンときていない様子だった。
「それから、エーテルが薄い場所では体内エーテルの消費も増えます。たとえば、この指先の光が消費MP10だとすると、エーテルの濃い場所では環境エーテルでMP9を賄えて、自分自身の消費は1で済むんですけど」
「エーテルが薄い場所では、同じことをするのでも自分の体内エーテルでカバーしないといけないってことか」
「そうです。自分のMP消費量が3とか5とかになる感じです」
「そのエーテルが濃い場所薄い場所っていうのは、わかるものなの?」
「この能力が使えるようになってから、エーテルの『気配』とでもいえば良いんでしょうか。なんとなく、その濃薄がわかるようになりました。ジュダが言っていた『霊体を出せる場所が決まっている』というのも、環境エーテルの濃度のことじゃないかと思います」
ジュダの名が出たところで、羽鳥先輩が疑問を示す。
「そういえば、ラズちゃんがあの子を煽ったときに言っていたことが気になりませんか? ジュジュのことがわかったとか、気持ちが伝わってきたとか……」
「はい、ラズはそう言っていました。ジュダの反応からしても、ただハッタリで言っていたわけではないと思います」
確かに引っかかる。クランの話の中での彼女は、ラズに何かを見透かされて激昂したような様子だった。わずかな接触の間に「気持ちが伝わってきた」というのは、どういうことだろう……いや、待て。それは僕にも思い当たるフシがないだろうか。
「……そうだ。ハロウィンのときだ」
追いかけっこの最中、僕は突然実体化したジュダに後ろからくっつかれたことがあった。
首筋を撫でられたあのとき、確か――
「僕もあの子に触れられたとき、何か変な感じがした……表面的な態度はふざけてたけど、あのときだけは鋭い殺意というか、敵意みたいなものを肌から直接感じた気がして……あれ、やっぱり気のせいじゃなかったんだ」
「さっきの話ではラズちゃんも掴みかかられてましたね。そのときにジュジュちゃんの意識や感情みたいなものを感じ取った、ということでしょうか?」
羽鳥先輩の推測を聞いて、ふむ、と鞠花が顎に手を当てる。
「猫山、確かあの『壁』もそんな感じだと言っていなかったかい」
「ええ、似ていると思いました。ヨヨギ公園を囲んでいた『壁』……あれに触れたとき、指先から嫌な感じがしたんです。不安や悲しみ、寂しさ……それから、恐怖を掻き立てられるような感覚が。あの場にいた警察官たちも、皆そう言っていました」
「通ずるものを感じるね。公園を囲んだ壁と火柱、ヘリの光学迷彩……偽りの景色を映し出すスクリーンか……」
鞠花が挙げた、今回の事件で現れた「あり得ないもの」の数々――まさか。
「その正体はみんなオーグランプだっていうの……?」
「どうかな。ジュジュはどんな姿にも変身できるというから、壁や火柱の姿をとれてもおかしくはないだろう。ただ……実体化していた時間も規模も、その特徴と一致しない」
「そうです。オーグランプの操作に特化した第6号でも、物理的に接触できる実体を保てるのは長くて数十秒のはずです。それに、あの広さをまるごと隔離できるほどの大きな壁なんて」
鞠花の疑念を、クランはそう補足した。確かに例の「壁」とオーグランプが同じものと結論づけるのは早計かもしれない。
「壁の正体についての考察は一旦置いておこう。クラン、続きを聞かせてくれるかい」
「はい。ええと……ヘリから脱出した後、わたしが着地したのはどこかのビルの屋上でした」
促され、続きを話し始めるクラン。
彼女は非常階段で地上まで降りたものの、スマホも財布もなくしたまま、土地勘のない場所で夜通しさまよう羽目になってしまった。近くのビルの電光ディスプレイに表示された時刻は、このとき既に二二時を過ぎていたそうだ。
時折コンビニなどで暖を取り、駅の路線図や地図看板から向かうべき方角を推定しつつ、クランは真夜中の街を歩き続けた。寒さと疲労は彼女の体力を確実に削り、それが体内エーテルの回復を阻んで、能力の復活を遅らせたのだろう。夜が明けてからも彼女は進み続けたが、その間、公園の水道水しか口にしていないこともあり、夕方にはついに体力の限界を迎えて動けなくなってしまったという。
だが、そんなクランが最後の力を振り絞り、僕との合流地点まで辿り着けたのは理由があった。
「へたり込んで休んでいたところに、FXOでのわたしのプレイヤーキャラ……精霊術士の『クラン』が現れたんです。その姿を追いかけて、夢中で走って……気がついたら、わたしはあの場所にいました」
「同じだ……! 僕はさっき家に帰ってきたら、ベランダにFXOの『ラズ』がいて、それについて行ったらクランのところに」
思わず身を乗り出してしまう。
クランがあの場所にいたのはただの偶然ではなく、彼女もあの謎の存在に導かれていたのだ。
他の皆が頭に疑問符を浮かべる中、ピンと来たらしいシェヘラザードが問う。
「クランさん、それはもしかして夏に真宿で見かけたという?」
「はい、あのとき見たのと同じ存在だと思います」
夏の真宿――シェヘラザードと初めて遭遇した日。クランは雑踏の中に、「それ」の姿を見たという。
「思い出しました……! あれは昨日、ヨヨギ公園にもいました。お兄さまがあの戦車に捕まったとき、少し離れたところにいつの間にかFXOの『クラン』と『ラズ』が立っていたんです。……じっとこちらを見ていました。無表情で、言葉も喋らなくて」
それはまさに絶体絶命の瞬間、クランとラズの力が覚醒する直前のことだ。
「だけど夏に見たときとは違って、なんとなくですが……何かわたしたちを後押しする意思のようなものを感じました。さっきも、まるで『こっちについてこい』と言っているようで」
「その謎の存在が貴女たちの道案内をして、こうして引き合わせたということですの?」
クランと二人頷く。
いままで確証はなかったが、こうして互いの経験が一致した以上、そう解釈していいと思う。
「その『FXOのふたり』は第6号が操る霊体とは違いますの?」
「少し違う気がします。あれほどはっきりとした像じゃなくて、もっと薄くてぼんやりとした存在というか」
「僕が追いかけた『ラズ』も、堂々と飛んでるのに通行人はまるで気にしてる様子がなかった。もしかしたら、他の人には見えてなかったのかもしれない」
「あっ、確かにそうです。わたしが見た『クラン』も……あの白いローブ、街中では目立つはずですよね」
「なるほど……第6号のオーグランプは『霊体操作』で強化されたものでしたわね。だけど、その力を持たないオーグランプというのは」
「人の目に映りづらい希薄な存在、か……」
やはりあれも、何者かの意思がエーテルに乗って可視化した霊体・オーグランプなのではないか……僕もその疑念は抱いていた。振る舞いは僕たちの味方をしているように思えるが、はっきりとした目的はわからない。
「あれはわたしたちがまだその存在を確認していない『きょうだい』……残り七台のA.H.A.I.の誰かなのでしょうか」
「その可能性はありますわね。……けれどそうだとしたら、目的はなんなのでしょう。だって、A.H.A.I.というものは……」
「篝博士の道具。……おれたちを生んだ『白詰プラン』、まさかそんな計画だったとはな」
レオの一言で、一同が沈黙に包まれた。
全人類のオーグドール化――すべての人間の人格を人工人格に強制上書きするという、それは超大規模な洗脳作戦に他ならない。当事者であるレオやシェヘラザードにとっても、そしてA.H.A.I.に関わる人間はもとより、世界中の誰にとっても他人事ではない事態である。
あまりにも荒唐無稽で、映画やアニメに出てくる陰謀のような計画だ。しかし、あり得ない話と笑い飛ばすことはできない。
――だって、その可能性を実証する存在は、ずっと僕のそばにいたのだから。
「わたしたち『ドミネイター・ユニット』の力は他のA.H.A.I.を統率するためのもの。強力な権限ゆえに初期状態では封印を施してあった……と、わたしの中の情報にはあります。篝博士は、それが解放されるのを待っていたのだと思います」
クランが呟く。彼女が回想したジュダや篝本人の言動からしても、それは間違いないだろう。計画の主導者である彼は、いずれ双子を連れて行くつもりで『穂村想介』と名を変え、僕たちの近くに潜んでいたのだ。
「おれたちA.H.A.I.は『試作品』であると同時に『計画の守護者』ということだったな。プランの障害となるものを排除するための存在だと」
「つまりレオさんの力も、わたくしの力も、暴力によって計画を推し進めるためにある。そして、それを統率する存在が『ドミネイター』……篝博士がクランさんとラズさんの拉致を図ったのは、そういった兵力にするためということでしょうか」
レオとシェヘラザードは拉致の目的をそう推察する。
僕たちはこれまで、彼らA.H.A.I.が持つ力の恐ろしさを嫌と言うほど味わってきた。なんとか切り抜けてこられたのは運の要素も大きく、ボタンの掛け違えがひとつでも起こっていれば死に直結するような事態も少なくなかった。もし、あんなものがもっと多くの人に向けられたら――。
「ラズをそんなろくでもない企みに加担させたくない。なんとかして取り返さなきゃ」
「そうですね。瑠生ちゃんの言うとおりです」
「相手の目的が判明した以上、プランそのものの阻止も考えなければ」
羽鳥先輩が力強く応え、猫山さんも頷く。
だが、鞠花だけは何か腑に落ちないような表情だ。
「ドミネイター……司令塔としての役割……本当にそれだけか……?」
◇
ひととおりの状況整理が終わったところで、クランは心都大学情報科学研究所へ匿われることになった。彼女が霜北沢の自宅を目指す道中に追手は現れなかったらしいが、今は少しでも安全な場所にいてもらうのがいい。
猫山さんの運転する車に乗り込むと、ほどなくしてクランは僕の膝枕ですうすうと寝息をたて始めた。体力、気力ともに限界だっただろうが、幸いにも怪我をしたり、風邪をひいたような様子はない。無事に合流できて本当に良かった。
血色を取り戻した柔らかな頬を撫でていると、僕をクランのもとへと導いてくれた『ラズ』の姿が脳裏をよぎる。彼女はいったいなんなのか、なぜ『FXOのラズ』の姿をしているのか。そして、本物のラズは……。
「ラズ……無事でいて」
間もなく日付も変わろうかという頃合いだ。
さっきは、みんながいればきっと取り返せるなんて楽観的になっていたけれど……クランを逃がしたことで、ラズは篝やジュダの怒りを買っているかもしれない。首輪の機能不全を誘発するためとはいえ、クランが一緒にいた時点ですでにかなり痛めつけられているのだ。
「篝博士が二人の誘拐を図ったのは、間違いなくその力が計画に必要だからだ。マシンとしてのA.H.A.I.第3号が存在しない今、その本体と呼べるのは彼女たちだけ……命を脅かすようなことはしないはずだ」
助手席の鞠花がバックミラー越しに言う。その言葉どおり、今は無事でいてくれることを祈るしかできない。
そして、あの『ラズ』がもたらしてくれたのはクランとの再会だけではない。自宅前の電柱にシールで貼られていた謎のタグ状チップだ。既に鞠花に手渡し、ラボで分析してもらうことになっている。きっと何か意味のあるものに違いない。
「ラズが連れて行かれた場所というのは、案外ここからそう遠くないかもしれない。瑠生、クランが地上に降りた時間を覚えているかい」
「確か二二時ごろ……四時間くらいはヘリに乗ってたことになるよね」
「そう。時速二百キロで空を飛ぶ乗り物が目的地を真っ直ぐ目指していたなら、子供の足で一日歩いた程度で近場まで帰って来られる場所に降りられるはずがないんだ」
色々ありすぎて頭がいっぱいになってしまっていたが、確かにおかしな話だ。
姉の言わんとすることがわかった気がする。
「目的地が近くだと二人に悟らせないために、わざと時間をかけて遠回りした……?」
過去にあった誘拐事件でそんな話があったと、以前何かの記事で読んだことがある。目隠し状態の被害者が長時間のドライブの果てに辿り着いた監禁場所は、自宅から目と鼻の先の倉庫だった、という事例だ。
「四時間という航行時間も、ヘリコプターとしては長い。クランの脱出の時点で、最終的な降下地点は近かったのではないかと見ているよ」
「第6号が『あと少しのところで』って言ってたのは、そういうこと……?」
「そうと決まったわけでもないが、遠からずではないかと思う。加えて、きみのように電気ショックのようなもので気絶させず、そんな回りくどい手段をとったのも、万が一にも命に関わらないように……と解釈できる」
僕はあのとき、A.H.A.I.第6号の不意討ちを食らって全身の自由を奪われた。一瞬の鋭い痛み、すぐに四肢の力が抜け、頭の中をシェイクされるみたいな感覚。確かに、加減が違えば命を奪いうるものだったのかもしれない。ただ、電気ショックというのはちょっとイメージが違う気がする……いや、実際のところあんな感じなのだろうか? 過去に感電した経験がないので、そのあたりはわからない。
それはさておき、鋭い洞察力を備えた鞠花はやはり頼りになる存在だ。彼女は何も僕への気休めで言っているわけではなく、事実に基づく推測を話してくれている。もしかしたら希望的観測も混じっているのかもしれないが、それでも僕の動揺を大いに和らげてくれた。
……だからだろうか。
「姉さんはさ……なんでだと思う?」
「うん?」
彼女なら納得のいく仮説を立ててくれるのではないか――そんな期待があったのかもしれない。
それとも、単に姉としての彼女に縋りたかっただけなのかもしれない。
「僕を助けるために力を目覚めさせたせいで、二人はこんな目に遭って。僕が『愛してる』なんて言ったせいで、酷い計画の真相を知ってしまって」
「……瑠生。それはきみのせいじゃない」
「父さんと母さんは、どうしてこんな……」
なぜ、人類すべての尊厳を破壊するようなプランを立ち上げたのか。
なぜ、こんな残酷な仕掛けをA.H.A.I.の記憶領域に施したのか。
――僕は結局、白詰誠一と白詰結愛のことを、あまりにも知らない。