1 / 緋衣瑠生
――ああ、やっぱり。道理で結愛さんの面影が……いや、そっくりだ――
――誠一さんと結愛さんは私の古い友人です。憶えていないかもしれませんが、瑠生さん。貴女とも昔、一度会っていますよ――
初めて会ったとき、あの男はそう言っていた。
今になってその言葉に実感が湧いてくる。
齢五十に近いはずなのに若々しいあの顔。
僕は今と変わらないあの顔を、物心ついて間もない頃に見ているはずだ。
……どこだ? 僕は、あの男とどこで会った……?
記憶はおぼろげなまま、意識が引き戻されてゆく――。
◇
目を開けたとき、視界に映っていたのは白い天井だった。
「あれ……」
屋内である。ベッドに寝そべっている。
ふと横を見ると、馴染み深い人の姿がある。
「ああ、瑠生ちゃん……良かった、気がついて」
「羽鳥先輩……?」
高校時代の先輩にしてご近所さんこと羽鳥青空(ハトリ・ソラ)が、パイプ椅子から腰を上げて心配そうにこちらを覗き込んだ。
周囲の風景から、自分がどこにいるのかはすぐにわかった。病院の病室、それも個室だ。
……なんでこんなことになっているんだろうか。確かクランとラズと三人で渋矢に出かけて、ヨヨギ公園で草凪に絡まれて、蟹みたいな戦車と戦って、その後は――意識が途切れる直前の記憶が一気にフラッシュバックする。
「クランとラズは!?」
ばっと身を起こして左右を見渡すが、室内にその姿は見当たらない。
「先輩、あの子たちは!」
「落ち着いて瑠生ちゃん」
「いや、だってあのとき――」
二人はすごく動揺していて、彼女たちに何が起こったのかもわからなくて。それに穂村さん――じゃなくて、篝理創という男の言葉からも、猛烈に嫌な予感がしたんだ。……彼はなんと言っていた?
僕の混乱に呼応するかのように、病室の扉が勢いよく開く。
「瑠生、起きたのか!」
らしからぬ慌てた様子で室内に入ってきたのは、姉の緋衣鞠花(ヒゴロモ・マリカ)であった。
「姉さん――?」
だが、その姿を認めた途端。
意識を奪われる直前に感じた、脳を揺さぶられるような感覚がぶり返し、僕は起こした上半身をふたたび横たえることになった。
◇
しばらくして、頭痛と目眩が少し落ち着いた頃。
羽鳥先輩と交代でベッドの脇に座った鞠花から、僕はヨヨギ公園のイベント広場で気を失って倒れていたところを発見され、最寄りの病院に搬送されたことを聞かされた。今の時刻はそろそろ日付が変わる頃合いだ。イルミネーションの点灯が十七時だから、あれから六時間以上経ったことになる。
そして、肝心のクランとラズはと言えば。
「行方不明……?」
「ああ。イベント広場にいたのはきみと……渋矢駅方面の入口付近に倒れていた熊谷、そして例の草凪一佳だけだ。クランも、ラズも、そこにはいなかった」
姉の言葉に愕然とし、全身から力が抜ける。
行方不明。
どこにいるかわからないということ。
いなくなってしまったということ。
あの二人が?
「……そんな……」
――これからもずっと、そばにいて欲しい。
僕の言葉に、クランとラズは答えた。
――はい。喜んで。
――うん。ぼくたち、ずっとあなたのそばにいるよ。
そう言葉を交わしたばかりなのに。
どうして? あの寒い中、いったいどこへ?
「あの子たちの行方については目下捜索中だ。あそこで一体何があったのか、きみにも色々話を聞きたいところなんだが……まずこれを見てくれ。これは今日、ヨヨギ公園のイルミネーション点灯直後の光景なんだが」
鞠花がタブレット端末を取り出す。その画面には、僕たちが見たのと同じ欅並木を彩る鮮やかな青い光が映し出されていた。見たところ公園の外側から撮られたもののようだ。
「あれ……?」
この写真はおかしい。すごく違和感というか、記憶との食い違いがある。
「並木通りに人が大勢いる……あのとき、あのあたりには誰もいなかったはずなのに」
「そのとおり。ほら、ここ」
鞠花に示された箇所をよく見ると、空の一部にうっすらと線のようなものが見える。
「なにこれ、境界線? ……まさかこれ、でっかい書き割りってこと!?」
「そんなところだね。この『何事もない、本来あるべきだった風景』を投影した巨大なスクリーン状の壁が広場の周囲を覆っていて、それがきみたちを隔離していたようなんだ」
「いつの間にそんなもの……」
「この『壁』は爆発が起こった一六時半を少し過ぎた頃に突如現れ、一時間ほど後に突如消失したそうだ。材質は不明。防災用の斧などは通るようだが、少しの傷はすぐに塞がってしまい、自動車で押せばバネのように押し戻されて突破できず、梯子を伸ばせばそれに応じて高さを変え、決して侵入を許さなかったという」
なんだそれは。そんな無茶苦茶な代物が、あの場所に……?
にわかに信じがたい話だが、辻褄は合う。現に都会のど真ん中で、あれだけのことがあった現場に、猫山さんどころか警察や消防も来なかったのだ。
「次は、こっちの写真を」
鞠花が画面をスワイプすると、今度はビル群を映した夜景の写真が現れた。画面下部には木々と、鮮やかな青い光が見える。やはり欅並木のイルミネーションだろう。つまり、あの場所の上空を収めた一枚だ。
「ここにヘリコプターが映っているんだけど、わかるかい」
確かに、空に何かの影が映っているように見える。だがその輪郭はヘリと言われてあまりピンとくるような形状ではなかった。強いて言うなら、機体の真ん中から真っ二つに切った後ろ半分だけが空に浮かんでいるみたいな……いや。
「これもしかして、さっきの写真と同じ……ヘリの前半分があの書き割りと同じもので隠されてるってこと……?」
姉はこくりと頷いた。
「ヘリは壁が消失する少し前に現れ、ヨヨギ公園に侵入。その後すぐに飛び立ち、この写真が撮られた直後、文字通り突然姿を消したそうだ。おそらくさっきの『壁』と同様、光学迷彩のようなものを纏っているんだろう。……推測だが、これが乗せているのは」
「クランとラズ……!」
そうだ。A.H.A.I.を創り出したという篝が『預けていたものを返してもらう』と言い残し、双子とともに姿を消した。間違いない。あの男が二人を連れ去ったのだ。
「このヘリはどこに」
「現状、残念ながら不明だ。うちのスタッフ、レオとシェヘラザード、企業や公安のツテも使って捜索しているところだよ」
不明――半ばわかっていた答えだ。改めて、胸の奥からざわめきが込み上げてくる。ばくばくと心臓が跳ねて落ち着かない。
こんなところで寝ている場合じゃない。今すぐクランとラズを捜しに行かないと――。
「アテはあるのかい」
ベッドから飛び出そうとする僕を、鞠花が言葉だけで制した。
「いや、けど……!」
「それとも、他に手がかりは」
唇を噛む。……そんなものはない。
「……くそっ……!」
吐き捨てる自分の声が虚しい。
居ても立ってもいられない気持ちは、鞠花も、その隣でずっと静かに話を聞いていた羽鳥先輩も同じなのだろう。顔を見ればすぐに分かることだった。
もし有力な手がかりなんて持っていたら――相手は、僕をわざわざ広場に捨て置いただろうか。今ここに生きていることが、僕にはどうすることもできないという証なのではないか?
「……いや……」
待てよ。あのとき、はっきりとわかったことがひとつあったはずだ。
白詰プランの現責任者である篝理創は言った。この計画は白詰夫妻から引き継いだものだと。それなら――
「……アストル精機……!」
僕の産みの両親が生前務めていた企業に、手がかりがあるかもしれない――!
◇
それから僕は鞠花と、さらに後から合流した猫山さんと情報共有をすることになった。
草凪とA.H.A.I.第4号のことについては、交戦した第5号レオや第8号シェヘラザードを通してある程度の情報が伝わっていたようだが、二人との通信が途絶したあとのことは僕しか知らない。クランとラズに眠っていた力のこと。そして篝理創と彼の言葉のこと――自分の口で語ってみてもおよそ現実味がなかったが、偽りない確かな記憶である。
ひととおり報告を終えると、鞠花と猫山さんは早速調査に取り掛かるべく病室を後にした。
僕と同じく公園で倒れていたという熊谷さん、そして戦車をけしかけてきた草凪もこの病院にいるということだったが、どちらも会うことはできなかった。聞けば、草凪は気を失って眠っているそうだ。脚に傷を負っているということだったが……そういえば、熊谷さんの投げナイフを食らっていたっけ。
問題はその熊谷さんだ。彼は何者かに襲撃され、重傷を負ってしまったらしい。脚の骨を両方とも折られ、肋骨も砕かれ、内臓にもダメージを負って意識不明状態が続いているという。その報せに、僕は言葉を失った。
クランとラズは行方知れず。僕たちのために戦ってくれた熊谷さんは、一命はとりとめたものの満身創痍。悔しさと歯がゆさ、喪失感と無力感が全身を苛む。
最後まで病院に残ってくれた羽鳥先輩に、今は休むようにと半ば強引にベッドに叩き込まれたけれど――当然ながら、その日は一睡もできなかった。
いったい、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
◇
一晩明けて軽い検査を受けた結果、特に身体に問題はないとのことで、僕は一度うちに帰ることにした。担当医さんにはもう少し休むことを勧められたが、目眩と頭痛もすっかり良くなっていたし、何よりそんな気にはなれなかった。
僕が運び込まれた渋矢総合病院は真宿(シンジュク)御苑の近くで、つい最近、中学時代の友人である犬束翠のお見舞いで訪れたばかりの場所だった。たいした距離もないので、昨晩の現場であるヨヨギ公園に寄ってみようと思ったのだが……案の定、イベント広場どころか公園の周辺地域全体が警察に封鎖されてしまっていて、中の様子はわからなかった。
ネットニュースをチェックしてみると、爆発事件自体はそれなりに大きく取り上げられていたが、公園の周りに発生した正体不明の壁には触れられていなかった。暴れる六脚機動戦車やドローンについても然りだ。
草凪の爆弾によってイベント広場の周辺には大きな火柱があがっていたはずだが、被害はボヤ程度のものしか出ていないという。これについては「爆弾そのものの威力はたいしたことはなく、大げさな火柱は立体映像によるフェイク」だと報じられていた。
だが鞠花によれば、どうもそれらしい投影装置は現場から見つかっていないという。これもあの「壁」やヘリの光学迷彩と同種のカムフラージュ技術ではないか……というのが姉の見解だ。確かに、ハロウィンの日に見たような立体映像ならすぐにわかりそうなものだし、あの火柱からは本物の炎のような熱だって感じた。
そして、この事件で若干の怪我人は出たものの、死者や行方不明者は出ていないとされている。
今年の春に起こったA.H.A.I.第5号レオの一件では、なにか見えない力による情報の揉み消しが為され、事件の真相は闇に葬られた。おそらく今回もそれと同じことが行われているのだろう。あるいはこういうメディアに圧力をかけている「何か」に迫ることができれば、クランとラズの行方がわかるかも……しかし、一体どうやって?
とりとめのないことを考えているうちに、ぶつかったのかぶつかられたのかわからないがとにかくやたら人と衝突したり、路上でクラクションを鳴らされたり、目の前に止まっていたはずの電車を棒立ちで逃したりして、気がつけば馴染みのホームタウンである霜北沢まで帰り着いていた。
病院を出たのは昼前だったはずだが、辺りはもう夕暮れ時だ。普段は一時間もかからないはずの距離なのに。
渋矢のように派手な規模ではないものの、駅前広場にはクリスマスツリーが飾られていて、ある人は忙しなく、またある人はのんびり楽しげに行き交っている。
十二月二十五日。普段通りの、だけど少し浮かれた雰囲気の、見慣れた風景だった。
そんな街の空気はどこか乾いて、色褪せて――いつもと変わらないはずなのに、なんだか全部がつくりものみたいな錯覚さえ感じる。
「あれ、瑠生さん?」
帰路の人混みの中でばったり出会ったのは、行きつけの洋食屋であるキッチン・ロブスタの店員、三葉愛(ミツバ・アイ)さんだった。
「ああ、三葉さん……って、なんです? 人の顔をまじまじと」
「さっきちょっと背格好が似た人を見かけて。声かけようとしたら人違いだったっぽくて……うん、本物だ」
「いや、別にその人も僕の偽者とかじゃないと思いますけど」
右に左に僕の顔を確認していた三葉さんだったが、途端に心配げな表情を浮かべた。
「瑠生さん、なんか疲れてないですか?」
「まあちょっと……三葉さんはこれから出勤ですか」
「ですです。私、今日は夜シフトで。って、本当に顔色悪いですよ。しっかり休めてます?」
「大丈夫です、 いま帰るとこなんで」
「そうですか……無理しないでくださいね。クランちゃんとラズちゃんによろしく。またいつでも待ってますんで! それじゃ!」
三葉さんはいつもの笑顔でぱたぱたと去っていく。
「クランとラズによろしく……か」
彼女の姿を見送ったあたりで、一軒のコンビニが目に入った。店員さんが店先にブースを出して、クリスマスケーキを売っている。
……そういえば、食べてなかったな。
◇
「ただいまー」
いつもの癖で口にしてしまうが、玄関で靴を脱いでも部屋の奥から返事はなかった。ひとまず荷物を置いて、もうひとつの居住空間である隣室の二〇一号室を覗きに行く。
「クラン? ラズ? ケーキ買ってきたよー」
ラインナップはもちろん二人の好きなフルーツタルトがふたつ、そして僕のお気に入りであるガトーショコラである。見かけた手前、コンビニのケーキでもいいかと思ったんだけど、やっぱり駅前に引き返して馴染みのケーキ屋さんで買うことにした。祝いごとの時にはだいたいあの店で調達し、ショコラとフルーツという趣を異にする味わいをちょっとずつ分け合うのが恒例なのだ。
――お帰りなさい、お兄さま――。
――やったあ! 食べよ食べよ――!
僕の呼びかけに応じて、クランとラズが部屋の奥からひょっこり顔を出し、弾むような声と笑顔で出迎えてくれる。
……なんて。
そんな都合のいい妄想を、静寂が打ち砕く。
昨晩のことは全部悪い夢かなにかで、当たり前にうちで待ってくれているとか。
あるいはいつも通り、何事もなかったかのように元気にドアを開けて帰ってくるとか。
そうであってほしかった。
僕はまだ、そうであることを心のどこかで期待していて。
「そんなわけないじゃん……」
当然ながら、部屋の奥は無人であり。
ベランダ窓からの夕焼けに照らされたテーブルの上には、猫山さんが用意してくれたクリスマスのごちそうがラップを掛けたまま放置されていた。一日放ったらかしになっていたローストチキンはすっかり冷めて、敷かれたサニーレタスもしなしなになってしまっている。
「……そんなこと、あるわけないじゃん……!」
僕は床に膝をついた。
なに呑気にケーキなんか買ってんだよ。保冷剤貰ってんだよ。
わかってんだろ馬鹿じゃないのか。いい加減にしろよ。
クランはここにいない。
ラズはここにいない。
日常の象徴たるこの場所で、その事実を改めて突きつけられる。
「なんなのもう……なんなんだよもう! くそっ!」
僕たちがいったい何をしたっていうんだ。
叫びだしたくなる。問答無用の理不尽に。しょうもない現実逃避をしている無力な自分に。
だけどどうすればいいんだ。
アストル精機という医療機器メーカーについては、父さんと母さんのことを調べていたときにもあたってみたことがある。けれど結局、白詰プランに関係ありそうな情報には出会えなかったじゃないか。素人の僕だけならまだしも、心都研究所という組織の力を持つ鞠花でさえそうだったのだ。かの企業になにか秘密があるのだとしても、たどり着くことなんてできるのか。
――では、預けていたものを返していただきます――
篝はそう言った。彼が二人を連れ去ったのだとして、その目的はなんなのだろう。どうして今更になって?
脳裏によぎるのは、闇夜を彩る二色の光の螺旋。
クランの『活性の右手(アクティベート・カストール)』とラズの『停止の左手(シャットダウン・ポルックス)』。
封じられていたA.H.A.I.としての能力が目覚めたことと関係があるのか?
……二人は、無事なのか?
クランに会いたい。ラズに会いたい。
二人の笑顔とすり抜けていったぬくもりを思い、視界が滲む。
そんなときだった。
窓から差し込む茜色の光が遮られ……なにかの影が、かすかに動いた気がする。
ベランダに……誰かいる……?
「クラン!? ラズ!?」
すぐさま立ち上がり、駆け寄ってカーテンを引く。
けれど窓の向こう、視界に飛び込んできたのは――ベランダの柵越しの見慣れた街並み。もちろん、誰が立っているわけもなく。
「……っはは、は」
思わず、乾いた笑いがこぼれてしまう。……見間違い。気のせい。自分に嫌気が差す。
僕は、この期に及んでまだそんなことを。
当たり前だ。そもそもこの寒い中、わざわざ狭いベランダにいる理由なんか――
「はは……、……は?」
――そんな理由なんかないはずで。
そこに「立っているもの」は、確かにいなかったけれど。
視線を上げたところに、「浮かんでいるもの」があった。
「ラズ……?」
彼女はここにはいない。それはもう嫌というほど理解した。
それでも僕はその「何か」を見て、そう呼ばざるを得なかった。
だって、宙に浮く半透明のその姿は。
僕たち三人がいつも遊んでいるオンラインRPG『ファンタジア・クロス・オンライン』における彼女のプレイヤーキャラ、軽剣士ラズにそっくりだったのだ。
◇
今しがた帰ってきたばかりの自宅を、僕は速攻で出ることになった。「ラズのようなもの」は視線が合った途端ふわふわとその場を離れて降下し、うちの前の路地に降り立ったからだ。
コートを羽織って玄関を飛び出し、階段を駆け下りると、それは電柱の隣に佇んでいた。
どうやら、夢や幻ではない。
「きみは誰?」
その問いかけに答えはなかった。代わりに、電柱を指差す。
「この電柱がどうかしたの?」
首を横に振り、もう一度同じ場所を指差す。
よく見れば、その先には繁華街なんかでよく壁や標識の柱に貼られているような、グラフィティアートの小さなシールがあった。このあたりでもたまに見かける、特に珍しくもないものだ。
「このシール?」
頷く。
「これに何かあるの? 剥がせってこと?」
さらに頷く。……おそらく、そうだと言っているのだろう。
僕は怪訝に思いながらも、シールの端にネイルを引っ掛け、引っ剥がした。
――何の変哲もないシールだ。思ったより粘着力が強くて頑丈だったけど……いや。
「……なにこれ?」
裏面に何か付いている。薄く小さなチップみたいな……そう。お店の売り物をレジを通さずに持ち出そうとすると防犯ブザーに引っかかる、商品管理タグだ。あれに近い気がする。
まさか盗聴器? 監視カメラ? にしては薄っぺらすぎるし、レンズもマイクも見当たらない。
僕が首をひねっていると、半透明の何かは地面を滑るように移動を始めた。
「あ、待って!」
あれがなんなのかはわからないが、見失ってはいけない――そんな直感に突き動かされ、僕はチップをコートのポケットに突っ込んで走った。
民家や小さなマンション・アパートが立ち並ぶこのあたりの住宅街は、どこも似たような風景が続いている。だが常にどこかしらが建て替え工事をしていて、街並みは少しずつ変化し、普段通ることのない一本隣の路地に入れば、たちまち知っているようで知らない異世界となる。そんな身近な迷宮をファンタジーな衣装に身を包んだ半透明の影が飛び回り、僕はそれを追いかける。
過去の事件において、双子は人混みの中に自分のプレイヤーキャラによく似た姿を見かけたことがあると言っていたのを思い出す。クランは真夏の真宿で。ラズはハロウィンの霜北沢で。
もしかして、これがそうなのだろうか……?
「待ってってば!」
時折すれ違う通行人が、声を上げて必死に走る僕を見る。だが、僕が追いかけている明らかに異質な存在を気にする様子はない。
ラズのような存在は、犬の散歩をしている人と正面衝突するかと思いきや、そのまま体をすり抜けた。すり抜けられた側も知らん顔だ。……どうも、他の人にはあれが見えていないらしい。
十二月二十五日の逢魔ヶ時。
今のシチュエーションは、過去にあったふたつの出来事を思い出させる。
ひとつは今年のハロウィン。A.H.A.I.第6号ジュジュの霊体を追いかけたときのこと。そのときのラズは僕の隣にいた。
もうひとつは双子がうちに来て間もない頃。心都研のラボで、クランの精神世界に潜り込んだときのこと。緑の服に革鎧、赤いマフラーというFXOの衣装に身を包んだラズの導きで、僕はクランの心の最奥を目指した。
――この『ラズ』は、まるであのときのように僕をどこかへ誘っているようにも思える。
だけど時折振り向いてみせるその顔はただただ無表情で、無機質で、何も言わず静かに飛び続けている。僕の知る、いつも賑やかでコロコロと表情を変える彼女とはやはり違う。
冬の太陽はあっという間に落ち、辺りがすっかり暗くなる。街明かりと昨日から続く曇り空のおかげで、星空は見えない。
どれだけ走っただろうか。住宅街を抜け、隣駅を越え、息を切らせて追いかけた果て。ラズに似た何かはとうとうある場所で止まった。四車線の広い車道にかかった歩道橋の近くに佇み、肩で息をする僕をじっと見つめている。
「ここに何かあるの?」
ラズの姿をした存在は、車道の隣の狭い歩行者通路を指差す。
「この先に行けってこと?」
頷く。
「そっちに何が――」
さらに問おうとした瞬間、『ラズ』の像に異変が起こった。身体のあちこちにノイズが走り、歪み始めたのだ。彼女は間もなく姿を消してしまう――僕は直感的にそう理解した。
「待って! 一体どういう」
軽剣士の姿は薄れてゆく。ノイズが広がり、足の先から消えてゆく。
ただ、最後に微かに動いた口は。
『――を、お願い――』
そんなことを言っているような気がした。
◇
彼女の消滅を見届けた僕は、指し示された方へとふたたび走り始めた。
これはなんらかの罠ではないのか? そんな考えが浮かばないではない。だけどそれ以上に強い確信が芽生えていた。
一刻も早く行かなければ。この先には――きっと。
曇った夜空から、とうとう雨が降り始めた。激しく打ち付けるものではないけれど、寒さのおかげで一粒一粒が痛いほどに冷たい。やがて足を踏み出すごとにばしゃばしゃと水音が立つようになり、疲労も相まって足取りは重く、指先の感覚は鈍くなってゆく。
それでも止まるわけにはいかない。
体温とともに気力を奪われ、水たまりに足を取られて転びながら、進む。
進んで、進んで、進んで――身体が震え、これ以上は無理だと悲鳴を上げはじめたとき。
僕はようやく、路端にその姿を見つけた。
今度は幻ではない。
「クラン!!」
雨の中ビルに寄りかかり、ずぶ濡れでへたり込む双子の姉は、いなくなったときのまま――いや、いつもかけているメディカルチェッカー内蔵の眼鏡と、はぐれる前には巻いていたはずのマフラーがない。
「……お兄……さま……?」
駆け寄る僕の姿を認め、僅かに口を開く。虚ろだったその目に、光が戻るのがわかった。
「……お兄さまっ!!」
立ち上がり、よろめく。
そのまま前のめりに倒れかかったところを、すんでのところで抱き止めた。
「クラン!」
「お兄……さま……」
「大丈夫? しっかり……!」
「お兄さま、ラズが……ラズが連れて行かれて……」
降りしきる雨音の中、かじかんだ小さな手が、僕のコートの裾を力なく握る。
「わたし……わたし……ひとりになってしまいました」