15_Jester

 なんか変なやつがいる。
 当時六歳の草凪一佳にとって、隣の席に座っていた子供の最初の印象はそれだった。

「えっと……草凪、一佳さん? その……僕、緋衣。緋衣瑠生っていいます」
「……そう」
「あの……よろしく」
「……ん」
「……ぁぅ……」

 小学校に入学したての授業初日。
 草凪のそっけない返事に萎縮したのか。その子供は時折彼女の様子を気にするそぶりを見せながらも、その日は結局、ふたたび声をかけてくることはなかった。
 ショートヘアにスポーティなショートパンツ姿で自分のことを「僕」と呼ぶので、一見すると男のようだが、女らしいということはすぐにわかった。見た目の印象と裏腹にどちらかといえば内気で、ボール遊びよりも読書を楽しむタイプの少女。そして――のちに風の噂で聞いたところによると、二年前に両親を亡くしているという。
 草凪は、自分と同じ境遇を持つそのクラスメイトに少しだけ興味が湧いた。当時はまさかこの後、十二年も学び舎を共にすることになろうとは思っていなかったが。
 彼女の名前は緋衣瑠生。最初は聞き流していたのでよく覚えていなかったが、思い返してみればそう名乗っていた。

 草凪は緋衣瑠生のことがあまり好きではなかった。
 他のクラスメイトとの会話の中でごく自然に、楽しげに、両親や姉の話をしていたからだ。
 草凪が引き取られた親戚の家には他に子供もおらず、彼女は毎日、義両親からほとんどいないものとして扱われていた。
 ――親を喪って別の家に押し付けられた、似た者同士かと思ったのに。

 しかし、その認識は徐々に変わっていくことになる。

 小学三年生のあるとき、草凪は休み時間に廊下で女子のグループとすれ違った。
 三、四人で固まっていたクラスメイトらは、緋衣瑠生が教室でよく話している一団だった。だが、当の瑠生はその中にいない。教室に入ると、彼女は一人で本を読んでいるところだった。

「あいつら仲いいじゃん。一緒に行かんの?」

 ちょうど席が近かったので、なんの気なしに尋ねてみる。
 瑠生は読書が好きとはいえ、本の虫というほどではない。特に例の女子たちと喧嘩している様子があるでもない。なのにあえてその行動をとる理由がよくわからなかった。他のクラスメイトたちは基本的に群れたがり、あるいは群れから外れることを恐れるような振る舞いを見せるのに。

「……べつに。関係なくない?」
「ん、まあそだね」

 取り付く島もなかったが、さりとて強い興味があったわけでもない。仲が良くてもそういうこともあるのだろうと了解し、彼女も次の授業に備え始めた。

 それから学年が変わり、グループが変わっても、瑠生にはそういう場面が見受けられた。
 草凪はいちいち話しかけることはしなかったが、観察しているだけでも、彼女の振る舞いについてはある程度の理解ができた。緋衣瑠生という人間は、自分から率先して他人を求めることはない。フレンドリーに接してくる相手に対してはある程度仲良くなりはするものの、一定のラインから先へは決して踏み入ろうとしないのだ。
 意識的にそうしているのかはわからないが、たとえば自分と相手の心をコップに見立て、そこに注ぐ好感度という水が溢れないように調整している……瑠生の行動は、彼女の目にはそんなふうに映った。

 草凪一佳は他人を信用しない。生活の上で必要な応答はおこなうが、可能な限り干渉しないし、されないようにする。
 産みの親はどうも何か良からぬ人間たちと付き合いがあって、その果てに落命したらしいということは理解していた。そういう親の子だから今の家で煙たがられているということも理解していた。産みの親は愚かだと思ったし、自分がおらずとも不和を抱えた今の義両親もそうだ。裏で誰が何をして、何を企んでいるかなど、わかったものではない。
 だから人との間にはっきりと線を引き、不信と拒絶をコミュニケーションの基本とする。
 その線の位置、あるいはコップの大きさは違うのだろうが――緋衣瑠生の本質は、自分に近いのかもしれない。
 草凪は、彼女の振る舞いに少しずつ共感を覚えはじめた。

 中学時代になると、緋衣瑠生のコップは小さくなった。
 もともと積極的に他人に関わろうとするタイプではなかったが、その傾向はより顕著になり、以前なら仲間入りしていたであろう仲良しグループにも属することはなかった。
 彼女が作る周囲との壁に、安心感を覚えた。
 だが、瑠生は同時にお人好しでもあった。目の前で困っている人間がいれば世話を焼き、それが済めば静かに立ち去る。そんな一面を知り、かつ深入りしない距離感がマッチする相手は少数ながらいたようで、たとえば先日名前を思い出した犬束翠などがそうだ。
 この頃の彼女は、まだ教室に友人がいた。

 高校時代、草凪は確信に至った。
 やはり緋衣瑠生は自分と同じ種類の人間である。
 いかなる心境の変化かは定かでなかったが、他者への不信と拒絶の色を、彼女はいよいよ包み隠さず表に出すようになった。
 嬉しかった。冷たく鋭い眼差しを、美しいと思った。
 そしてひたすら他人を拒絶し続けていた自分も、結局のところ同類の他人という存在を観測して安心したかったのだという事実に呆れ、笑った。

 本人に悟られないようにその姿を捉えた写真データをスマートフォンで眺めながら、草凪は自問した。この理想の同類を自分のものにしたいのか。だが、おそらくそれは違う。そんなことになってしまえば、そうでなくても彼女が誰かを愛するなどということになってしまえば、この美しさはたちまち失われてしまうに違いない。
 二年生の秋、一学年上の羽鳥という女が現れたとき、草凪は大いに動揺した。瑠生の隣に突然収まったあの三年生をどうにか排除するべく手段を考えたものだったが……そうするまでもなく、気がつけば彼女は離れていった。
 緋衣瑠生は変わらなかった。
 草凪はそれを喜び、またいつ壊れるとも知れない薄氷の上の美であると知った。

 やはりオマエはそうでなくてはならない。『そういうもの』であり続けてくれればいい。
 その一方的な感情を、瑠生が知ることはなかった。

 幸い、産みの両親が遺した資産がほとんど手つかずの状態で残っていたので、高校卒業後、草凪一佳は義実家を早々に後にした。
 進学どころか進路らしい進路は何も決めていない。義両親もそれについて特に口出しはぜず、ただ一言「もううちをアテにするな」的なことを言われたように記憶しているが、そんなことはそもそも考えていない。
 持ち出した荷物は主に衣類と十数冊の本程度というコンパクトなもので、それがこの家で過ごした十二年間、彼女の持ち物と呼べるおおむね全てであった。
 幼少期から持っていたピエロの人形も、今やボロボロでもはや必要とする理由はないが、手放す理由もなかったので一緒に箱に入れてきた。産みの両親が神川の兵隊たちに連れ去られたとき、クローゼットの中で握りしめていたものだ。

 川裂(カワサキ)の古い賃貸ワンルーム。この物件を選んだ理由は当然、緋衣瑠生の進学先に適度に近い場所だからである。
 大学生になった瑠生に、以前ほどの張り詰めた雰囲気はなかった。大学では毎日同じメンバーで教室に詰め込まれる高校までと違い、自発的に関わらない限り他人から干渉されることがあまりないからだろう。彼女もなんだかんだで自分と同じように実家を離れたかった……なんてこともあるのかもしれない。いや、きっとそうだ。なにしろあいつとは似た者同士なのだから。
 以前からの顔見知りが学内にいたらしく、時折行動をともにしている姿を見かけたが、それでもしばらく、彼女は孤高の存在であった。

 瑠生が大学生になってしばらくした頃、SNSの情報から彼女がファンタジア・クロス・オンラインというゲームを始めていたことがわかった。
 草凪はこの手のコンピュータゲームには馴染みがなかったが、娯楽へのわずかな興味、そして何より瑠生への執着からアカウントを取得した。しかし実際に触れてみると、特定プレイヤーの動向を本人に悟られないよう探ることには限度がある。直接接触を図るのは本意ではなかったが、彼女は瑠生が所属するギルド、つまりプレイヤー同士のコミュニティへ潜り込むことにした。

 夏になり、ギルドへの潜入を果たした草凪が目にした光景は信じ難いものだった。
 そこにあった瑠生のプレイヤーキャラ『ルージ』の姿は、ギルドメンバーたちと和やかにチャットで語らい、時に冗談を交わし合い、共闘を楽しむものだったのだ。
 このプレイヤーは、緋衣瑠生とは別人なのではないか……草凪は潜入先の間違いを疑いさえしたが、それもボイスチャットを聴いて吹き飛んだ。談笑するルージの声は彼女がよく知るものに相違なく、それでいて今まで聞いたことのないような楽しげなものであった。

 プレイ日数が重なるにつれて、リアルの瑠生の顔つきも穏やかなものになってゆく。あるべき姿から遠ざかってゆく。
 ――このコミュニティは危険だ。一刻も早く取り除かなければならない。
 草凪は羽鳥青空のときとは比べ物にならない動揺に襲われ、しかし努めて冷静に策を講じた。
 SNSと匿名掲示板に主要なメンバーの良からぬ噂を書き込み、複数のサブアカウントを駆使してその噂をゲーム内に持ち込み、少しずつ不信を煽る。地道な工作によって発生した僅かな亀裂は徐々に広がり、二ヶ月ほどで瑠生の所属するギルドは崩壊を迎えることとなった。

 この頃、ゲームの運営による業者等の不正利用対策として疑わしいアカウントの大量規制があった。草凪が保有していた工作用のアカウントはほぼ全てが凍結され、手元に残ったのは純粋に攻略目的で育成していた槍騎士くらいのものだった。
 ギルドの解散とサブアカウントの凍結によってルージの動向はかなり不透明になったが、かの聖騎士は数カ月後にFXOの世界から姿を消した――つまり、最終的に瑠生がゲームをやめたらしいことはわかった。
 冷たさを取り戻した彼女の表情に、草凪は安堵し、満足し、愉悦を覚えた。

 彼女がすでに狂気に取り憑かれていることを、知るものはなかった。

 翌年の春、草凪は異変に気付いた。
 緋衣瑠生が住まう霜北沢のマンション周辺に、明らかに第三者が放つ張り詰めた空気が流れているのだ。
 まるで警察官が張り込み周囲を警戒しているような雰囲気で、およそ住宅街に似つかわしくないスーツ姿の大男を見かけたこともあった。その佇まいは明らかに只者ではない。
 自分の存在が察知され、対策を講じられたのではないか? 草凪はそう考えて瑠生の自宅から距離を取りつつも、彼女本人からそんな様子をまったく感じなかったことを疑問に思った。

 それからしばらくの後、草凪は偶然、霜北沢駅前広場に通りかかった瑠生の姿を目にすることになる。
 彼女の傍らには、見慣れない二人の少女の姿があった。
 一人は栗色の髪に白い肌、ピンクのフレームの眼鏡をかけている。もう一人は金色がかった白髪に褐色の肌、こちらの眼鏡はライトグリーンのフレームだ。

 背格好も顔立ちもそっくりな二人――おそらく双子を連れた瑠生の表情は、かつて見たこともないほど穏やかで、和やかで。

 あってはならない、幸福の色に満ちていた。