10_緋衣鞠花の分身たち:12月21日(土)

1 / 緋衣瑠生

 なんかすごいものを見てしまった。多分見てはいけなかったやつだ。
 煽られてムキになってしまったのだとクランは言う。
 冗談のつもりがああなってしまったとラズは言う。
 でもその割に、絡められた指はいやに情熱的だった気がする。いや目の錯覚かもしれない。そうかな?
 クランの白とラズの褐色、濡れて絡み合う瑞々しい肌はとても艶かしく見え、紅潮した頬がそれをさらに煽情的に彩る。いや入浴中だし顔くらい赤らむだろう。そうかな?
 むしろ角度的に二人がキスしてるように見えただけかもしれない。そうかな? そんなわけないだろ。

 あの衝撃からもう一週間近く経つ。
 結局あれがなんだったのかを今さら問い質せるわけもなく、というか二人が事故だと言っている以上は深く追求する必要もないはずで。本人たちはけろっといつも通りの日常を送っているのだが、あの図が脳裏に焼き付いて離れない。
 今年の春ごろ、一時期クランが起きがけにキスをしようとしてきたことがあった。それはすぐに本人が反省してなくなったのだが、やっぱり引きずっていたのだろうか。
 そしてクランに加え、どういうわけか最近はラズも思わせぶりな態度をとることが増えた。もしかして、そんな二人が合わさって何かが弾けてしまった、ってこと……?
 最近、僕に隠れて二人だけで何かしてる風でもあるんだよな。何かってなんだ。何かを知っていそうな猫山さんさえ、楽しげに笑うだけで何も言ってはくれない。

 こうなってくると、彼女たちの感情の源泉であろうものを改めて意識せざるを得ない。義姉の緋衣鞠花である。
 家族思いでお節介焼きな姉であると同時に、研究者としての才に溢れ、人望もあり、ぶっつけ本番でA.H.A.I.第3号αとβのオーグドール化をやってのけた紛うことなき天才。
 そして、かつて僕に妹として以上の想いを抱いていたという女性。僕は一昨年、双子がうちに来て間もない頃の事件においてクランの心の中に潜り、クランにないはずのその記憶と想いを目の当たりにしたのだった。

 時は土曜日の午前中、もうすぐ正午に差し掛かろうという頃。机の上に置いてあったスマホが、突如バイブレータの振動音を響かせた。

「うぇっ!?」

 気を散らし、机に頬杖をついて全然違うことを考えていた僕は反射的にビクッと震え、手にしていた就活の資料を取り落としてしまった。
 スマホの画面に映った名前は「鞠花姉」。まさに今、ぼんやりと思い浮かべていた相手である。タイミングを見計らったかのような着信にびびりながらも、僕はほぼ無意識の反射で通話ボタンをタップしていた。

「……もしもし?」
「ああ、瑠生。今大丈夫かな」
「うん、まあ。ちょうどよかった」
「ちょうど? 何か用でもあったのかい」

 そうそう。ちょっとクランとラズにこういうことがあってさ。やっぱり姉さんも当時、そういう欲求とかがあったりしたのかなって。……聞けるわけないだろ何考えてんだ。頭を机に打ち付けそうになるのを、すんでのところで堪える。

「いや、あぁほら! 特に用とかじゃないけどたまには声聞きたいなーみたいな?」

 苦しい。明らかに僕のキャラではない、悪いものでも食ったのかという勢いだ。なんて自分では思ったのだけど、特に驚く風でもなく姉は笑った。

「なんだなんだ。珍しいね、子供の頃みたいじゃないか」
「えっ、そうかな。こんなこと言ってたっけ」
「そういう物言いではなかったが、瑠生は昔から寂しがりだったからね」
「むぐ……」

 以前はそういう自覚はなかったが、今はあまり否定できない。

「その割に奥手で、しかもツンツンしがちで友達を作るのはヘタときた。家を出てからも、実はちょっと心配してたんだよ」
「それは知ってる。ていうか、言い方」
「おっと、済まない済まない。しかしまあ、我ながら構いすぎたと思ったこともあったね。鬱陶しかったろう」

 実家にいた頃の鞠花は僕とよく遊んでくれたし、自身が進学して実家を離れた後もちょくちょく連絡をくれた。僕の大学受験が終わったとき、FXOというオンラインゲームに誘ってきたのも彼女だ。
 離れてからもずっと気にかけてくれる姉の存在を、今は素直に嬉しく思う。だけど高校時代なんかは「余計な心配しないで」とか「構わないで」とか突っぱねるようなことを言って、頑なに自分からメッセを飛ばさなかった時期もあって。

「まあちょっと……ていうか、それは姉さんの構いすぎっていうよりは、僕がいじけてただけっていうか」
「そうなのかい? 遅れてきた反抗期みたいなものかとばかり」
「だってほら、姉さんは頭いいし。人付き合いもうまいし。何も無い自分と比べちゃうとさ」
「なんだ。そんなふうに思っていたのか」
「その頃の僕にとっては深刻な問題だったんだってば」

 正直、今だって自分と比べてしまう気持ちがないわけではない。なにしろ彼女の分身でもある二人の少女が自分にないさまざまな力を急速につけている、その様子を日々間近で見ているのだ。
 加えて、散々構い散らかしておきながら自分を置いて遠くへ行ってしまったことへの苛立ち、なんて理不尽な理由もあったのだけど……それは恥ずかしいので言わないでおく。

「それで、姉さんは何か用事があったんじゃないの」
「ああ、そうそう――神川機関の残党が都内に潜んでるかもしれないって話、この前しただろう」

 普段だったら「もう少し雑談しようぜ」なんてゴネそうな姉の口調が真剣なものになり、一気に緊張が戻ってくる。
 神川機関。僕たちにとって直近かつ最大の危険因子と言っても過言ではないその名前に、息を呑んだ。

「まず、潜伏の噂は本当だった。真宿区、渋矢区、湊区あたりを中心に、神川の残党は幾つかの拠点を持っていたようだ」

 都内どころか23区内だ。
 渋矢に関してはシェヘラザードの噂でもしかしたらと思っていたが、他に挙げられた地域もうちからそう遠くない。

「もしかして、ここから離れたほうがいい?」
「いや、ひとまずそれには及ばない。……というのもね、機関の構成員たちがここ数日で次々に逮捕されていて……おそらく、連中は既にほぼ壊滅状態にある」
「……へ? 壊滅? 要するに、危険は去ったってこと?」
「神川についてはそう考えていいだろう。少なくとも、幹部やリーダー格は昨日の時点で全員が消えたようだ」

 肩から力が抜け、ため息が出る。
 良かった。ついぞ自分の目でそいつらの姿を見ることはなかったが――って、ちょっと待った。

「神川については、って?」
「やつらの拠点は、どうも警察が積極的に乗り込んでいって潰したわけではないみたいでね。匿名の通報を受けて行ってみたら、既に何者かに制圧された後だった……という具合らしい」

 つまり、他に神川機関と敵対関係にある者がいた、ということだろうか。

「それ、誰の仕業なの……?」
「不明だ。そいつか、そいつらか……まあ神川自体が敵の多い組織だったのかもしれないが、その『残党狩り』が私たちにとって脅威になりうるものかどうかもわからない。そういうわけで念のため、きみらの周囲には引き続き警備体制を敷くことになる」

 かつて鞠花たちのラボに乗り込んできたという神川の構成員は、銃器などで武装していたという話だったが、残党たちもそうだったのだろうか。そんな連中をやっつけたという何者かの存在が気になるところではあるが……なんにせよ、明確に危険とわかっている組織がいなくなったというのは朗報だ。

「連絡としては以上だ。……すまない。不便をかけるね」
「了解。あとそれはいいって。むしろ警備ありがとうだよ」

 鞠花は未だにこういうことを言う。要は面倒な事態に巻き込んだ負い目があるという話だ。
 彼女の行動がなければ、A.H.A.I.にまつわるさまざまな事件や秘密に僕が関わることはなかっただろう。実際、ここ半年で次々と想定外の怪事件に見舞われているわけで、立場的にそういう気持ちになるのも理解はできる。

「いろいろあるけど、恨んだり後悔したりとかはないからね。姉さんがクランとラズを僕に預けてくれなきゃ、姉さんが何をしていて、何と戦ったのか、知らないままだった。そっちのほうが嫌。あのときから変わってないよ。それに――」

 ――それに。あるときふと考えたことがある。もし、鞠花がA.H.A.I.第3号のオンラインゲーム実験に僕を選んでいなかったら、と。
 クランとラズの「兄」は僕ではない他の誰かで、二人はその誰かと仲良くなって。ヒトの身体を得た彼女たちは、その隣で笑って――僕はその存在を知ることさえなく、今も満たされないものを抱えたまま、なんとなく生きているに違いない。などと。
 そんなどうしようもないイフを想像し、誰かもわからない何者かに憎しみにも似た嫉妬心を抱き、そんな「たられば」の妄想に振り回されている自分が急に恥ずかしくなって悶絶してみたりして。

「ぁー……うぅ。やっぱナシ。なんでもない」
「えっ、なんだよ」
「なんでもないって。あの子たちに会えないままだったら、それもやだなって思っただけ」
「そこはやっぱりきみが適任だったと思っているし……そうだな。それをきみが喜んでくれている以上、引け目を感じすぎるのも傲慢というものかもね。ありがとう、瑠生」

 通話の向こうで、姉は照れくさそうに笑った。

「……余計なお世話かもしれないが。クランとラズの心については、かつての私の気持ちとは別に考えてあげてほしい」
「えっ。それは――なんか急だな」

 思いがけず虚を突かれ、どきりとしてしまう。
 ずっと心の片隅に引っかかっていたことだったが、まさか鞠花自身からその話題が出てくるとは思わなかった。

「……でも正直言うと、それ込みで好かれてるのかなって思ってたところはあるよ」

 AIとしてのクランとラズはおよそ一ヶ月ほど、僕と「FXO」で冒険を共にした。
 当時から仲良くやっていたとは思うけれど、後に双子がオーグドールとなってうちに押しかけてきたときの異様な懐かれっぷりは、後から思えば鞠花の残滓が影響していたのではないか。僕はそう考えていた。

「私も色々考えたんだけどね。……二人は今の身体の中にあったものを自分の感覚に近しいものとして理解はしたのだろうが、既に確固たる自意識を持った彼女たちにとって、それはあくまで後から流れ込んできた他人の感情だ」
「クランもラズも、そこをちゃんと切り離して考えてるってこと?」
「実際のところはそう簡単じゃなく、融合による戸惑いはあったようだけどね。……まあ、つい最近、このへんについてあの子たちと話す機会があったんだ」

 そういえば僕が水琴と飲みに行った日、珍しくFXOに鞠花が来てたくさんお喋りをしたって、二人が言ってたっけ。

「あれから時間を経て経験を積み、成長した今、私の残滓が占めるものは当初よりもずっと小さくなっているだろう。二人がきみを慕う気持ちは、あのマシンの中にいた頃から地続きの、彼女たち自身の想いの蓄積によるものだ。そこは、わかってあげてくれ」

 僕を慕って、僕に会うために、クランとラズはヒトの身体を得てこの世界にやってきた。理解していたつもりではあるが、改めて言われてみればそういう順番のはずだ。

「あの子たち自身の、か……」

 彼女たちは彼女たちであって、鞠花ではない。それはもちろんわかっているつもりだった。
 だけど、クランの中で鞠花の残滓を見たあの事件があって、日々どんどん成長していく二人の姿を目の当たりにして――僕は彼女たちの中に、自分で思っていた以上に姉の影を見ていたのかもしれない。

 鞠花との通話を終えると、立て続けに翠から電話がかかってきた。

「もしもし、翠?」
「おっはー。瑠生、今ちょっといい?」
「大丈夫だよ。どうかした?」
「ちょっと報告と相談」

 どうせ友達少ないからスマホの通話機能なんかいらない、などと捻くれていた時期も過去にはあったけど、当該機能はここのところ大活躍である。なお、もはや言うまでもなくそういった拗らせエピソードは高校時代の話だ。
 閑話休題。旧友の声は明るく、こころなしかテンションが高い。

「まず報告ね。……<ゲイザー>、戻ってきたよ。私たちのところに」
「えっ? 戻ったって、例のアプリで話せる状態に戻ったってこと?」
「そうなの。今朝、本人から連絡来てびっくりしちゃった。今は研究室のマシンで話せるよ。変な表示も直ってて」
「そっか、良かった……!」

 神川残党の件に次いでの朗報だった。
 すぐに退院して研究室に復帰したとはいえ、<ゲイザー>の不在は翠にとって大きな欠落だったことだろう。

「私のパソコンも、まだ手元には返ってきてないんだけど、今は警察にある」
「それって、もしかして」
「うん。草凪さんが持って、出頭したんだって」
「自分から? 見つかって逮捕されたとかじゃなくて?」

 翠を殴った犯人は、やはり彼女の証言のとおり草凪だったらしい。
 その動向については謎だが、本人が盗品を持って出頭した以上、<ゲイザー>の件については一旦の決着がついたと見ていいだろう。
 後はおそらく強盗致傷による逮捕勾留、細かい事情は警察が明らかにしてくれるはずだ。

「ひとまず一件落着……なのかな」
「だいたいね。ご心配おかけしました。……で、ここからが相談。ちょっと瑠生に……というか、瑠生『たち』にお願いがあるの」

 一息置いてそう口にする翠だったが、どういうわけか本人も少し戸惑っているように聞こえた。
 その理由は、すぐに判明することになる。