12_挟撃のチョコレートパフェ

1 / 緋衣クラン

「――お兄さま?」
「ざんねん、私です。……クランちゃん、大丈夫ですか?」

 気がついたとき、目の前にいたのは羽鳥青空さんでした。その名と同じ雲ひとつない晴天を背負った彼女が、わたしの顔を覗き込んでいます。
 どうやらわたしは、あの後ベンチに寝そべって羽鳥さんに膝枕されていたようです。

「羽鳥さん? ああ、すみません……。ラズとお兄さまは……?」
「さっきの女の子を追いかけていきました。あの子もA.H.A.I.――『第6号』だそうです。危険なことをしようとしてるみたいで、それを止めに」
「本当ですか!? すぐに追いかけないと」
「あぁっ、そんな急に起き上がらないほうがいいです。まずは少し落ち着いて」

 飛びあがりそうになったわたしはオオカミさんの両手で肩を抑えられ、膝枕状態に戻されてしまいました。

「レオくんを連れて行ってもらったので、状況は随時報せてもらっています。今のところ危ないことにはなっていません」
「そうですか……。情けないです、わたしだけ気を失って」
「あんなの見せられたら誰だって驚きます。ましてやクランちゃんは目と鼻の先だったんですよ」

 脳裏に蘇るのは怖気立つ光景、ヒトのかたちをしたものが目の前でゾンビになっていくグロテスクな姿。……思い出さないようにしましょう。とはいえ、その正体がわたしたちの「きょうだい」だというなら、多少は恐怖が薄れます。そういうことにしておきます。
 いつまでも休んでいるわけにはいきません。深呼吸をひとつ、ふたつ。わたしはゆっくりと身を起こしました。

「状況はどうなっているんでしょう……羽鳥さん。レオからの報告、わたしにも聞かせてください」
「だったらLINEを見るのが早いかもです。テキストで私とクランちゃんに送るようにお願いしているので」

 スマホを取り出して確認すると、羽鳥さんの言葉どおりレオからの通知がたくさん溜まっていて、今まさに新しい報告が入ったところでした。
 各々LINEのトーク画面を遡り、実況のログを確認します。
 自由自在、神出鬼没なA.H.A.I.第6号。彼女を捕まえることができなければ、どんな「イタズラ」をするつもりなのか……今年の春、電話越しに聞いたマシンガンの銃声は、恐怖は、未だ忘れることができません。あんなことは二度とごめんです。

「とはいえ……私たちの手が増えたところで、これは捕まえられるかどうか」

 レオからの報告は淡々としていながら、第6号の動きに翻弄されている様子がありありと伝わってくるものでした。羽鳥さんの言うことはもっともで、真正面から立ち向かって捕まえられる相手とは思えません。
 ……なにか対策を講じたい。相手の不意をつき、隙を作れるような。

「そうだ。羽鳥さん、ガイドマップは持ってますか?」
「ええ。どうぞ」

 手渡されたマップには、このハロウィンイベントに参加している店舗の位置と催しものが記されています。

「ここに行きましょう!」
「キッチン・ロブスタ……クランちゃんたちがよく行ってるところですよね? あっ、ここでやってるのって――」

 後で寄ろうと思っていたお店と、今日そこで提供される特別メニュー。その詳細にはこんな文句が記されています。

参加店舗㉔ 洋食レストラン キッチン・ロブスタ
【特別メニュー】
①特製パンプキンパイ ¥680
②ハロウィン☆フォーチュンチョコレートパフェ ¥1,100
 ご注文の方に、天の声がその場で今日の運勢をお知らせ! ※13~15時、16〜18時
(協力:占いスペース・アルフライラ)

 ――「彼女」の力を借りられるかもしれません。

「う、運動不足の身にはっ、つらいですね……!」

 外壁を色とりどりのハロウィン飾りに彩られたキッチン・ロブスタに辿り着くと、羽鳥さんは顔を赤くして息を切らせていました。そう長い距離をダッシュしたわけではないのですが、オオカミさんの着ぐるみがとても暑そう。
 かぼちゃ飾りのかかったお店の扉を開ければ、いつも通りカラコロというベルの音と、お馴染みのウェイトレスさんの明るい挨拶が出迎えてくれます。

「いらっしゃいませー! あ、クランちゃん。可愛い仮装! 魔女っ子だね」
「こんにちは三葉さん、ありがとうございます。……あの、アルフライラの山羊澤先生、いらしてますよね?」
「来てるけど、フォーチュンパフェやるのは午後からだよ?」

 噂をすれば、奥から見覚えのあるおじさんがぬっと現れました。

「ああ。それとはちょっと別件で、その子と少し話がありまして」

 大柄なドレッドヘアの占い師・山羊澤紫道さん。……見た目は少し怖いけれど、厳格な元教師だといいます。道すがら「彼女」に連絡を入れていたので、わたしたちの来訪は山羊澤さんも把握していたのでしょう。

「お嬢さんがた、こっちへ。……三葉さん、いいですかな?」
「どうぞどうぞ。クランちゃん、アルフライラの店長さんとも仲良くなってたんだ。やるね」
「ええと、そんなところです」
「急に押しかけてすみません。おじゃましまあす」

 汗の流れる顔をぱたぱたと仰ぐ羽鳥さんとともに、山羊澤さんの後に続きます。普段入ることのないお店のバックヤードを通って休憩室に入ると、あの声が聞こえてきました。

「お久しぶりですわ、クランさん。……と言っても、あなたにとっては電話で話すのとあまり変わらないかも知れませんけれど」

 キッチン・ロブスタのハロウィン企画に駆り出された、アルフライラの「みえない占い師」ことA.H.A.I.第8号シェヘラザード。今日の目玉メニューであるハロウィン☆フォーチュンチョコレートパフェは、提供とともに彼女の簡易運勢占いが店内に流れるというものです。
 声の発信源はテーブルの上に置かれた白い円柱状の装置で、大きさは二リットルのペットボトルほど。A.H.A.I.第5号レオにとって猫のマスコットがそうであるように、彼女にとっての「仮の身体」はこの機械のようです。

「この子が第8号ちゃんですか。加湿器みたいですねえ」
「せめてスマートスピーカーと言ってくださいまし!?」

 装置をまじまじと見つめる羽鳥さんに、シェヘラザードが抗議します。それ、わたしも思ったけど言うのを我慢したんですよ……!

「羽鳥青空、茶番をやっている場合ではありません。A.H.A.I.第6号――あの相手は極めて危険だ」

 不意に割り込んできた声は、オオカミさんの懐のスマホから。ラズと瑠生さんに付き添い、状況を報告してくれていたレオでした。
 いつも淡々としている合成音声に珍しく焦りの色が混じり、胸の奥が嫌な予感にざわつきます。

「レオくん、どういうことです? 状況は?」
「たった今、緋衣瑠生に貸与した猫の端末が破壊されました。第6号は武器を持ち出した。アレには明確な攻撃の意思があり、それが今彼女たちに向けられている」

 その言葉を聞いた瞬間、わたしは羽鳥さんに掴みかかっていました。

「ラズとお兄さまは!?」
「猫が破壊された時点では無事だ。だが、もう向こうの状況がモニタできない」

 まただ。またこの手が届かないところで、大切な人たちが危険な目に遭っている……こんな思いは二度としたくなかったのに。
 さらに緊急度を増した事態に、わたしは加湿器に向かって叫びました。

「お願いですシェヘラザード。あなたの力を貸してください!」

2 / 緋衣ラズ

 ざっくりと切り裂かれた編みカゴ、握り潰されたマスコットの残骸。片手に大きなナタをくるくると遊ばせるサディスティックな笑み。
 A.H.A.I.第6号の凶暴性と危険性がここにきて露わになった。

「そうそう。そういう顔いいね」

 妖しい眼光がぼくを捉えて離さずにいる。
 さすがに今の彼女の暴れっぷりは目立ちすぎたのだろう。ぼくたちを取り囲む人々が足を止め、ざわめいている。だが、当の第6号本人は気に留めていない様子だ。
 心臓が危険信号のようにばくばくと脈打ち、にじむ涙が視界をぼやかす。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう状態のことを言うに違いない。

「ほらほら、震えてないであたしを捕まえてくれなきゃ――!」

 深呼吸する暇もなく、第6号は背中にコウモリのような大きな羽根を生やし、レオを握り潰した悪魔の腕に両腕を変え、ノーモーションでこちらに突っ込んできた。

「ばぁっ!」
「うわああああぁぁぁぁっ!」

 たまらず膝を折り、その場にしゃがみこんでしまう。――が、なんの衝撃も襲ってはこない。

「あっはははははははは! 残念ざんねん! 今のはさわれないあたしでした!」

 第6号はさっきまでと同じ場所で心底愉快そうに笑っている。突っ込んできた彼女はそのまま瑠生さんとぼくの身体をすり抜け、次の瞬間にはもといた位置に戻っていたのだ。
 ……遊ばれている。わかっているのに身体の震えは止まってくれない。
 レオはやられてしまった。頼りになる熊谷さんはここにはいない。猫山さんも羽鳥さんもいない。……そして、相棒のクランも。
 ぼくが頑張らないといけないのに。

「あれも立体映像? 今のすごくない?」
「でも脅かしにしてはちょっとやりすぎだよね。あの子泣いちゃってんじゃん」
「ほんとだ。かわいそ」

 通行人たちの話し声が嫌でも耳に入ってしまう。
 ……ちがう、こんなはずじゃない。なのに立てない。
 情けなくて、俯きこぼれた涙が眼鏡のレンズにたまってゆく。

「ラズ、しっかり!」

 瑠生さんの声色も険しい。
 ぼくはこの人の役に立つために来たはずなのに、むしろ庇われて、足を引っ張って。
 少し体力がついて褒められたくらいでどうにかなる話ではなかった。大口叩いて無理言ってついてきたのに、こんな情けない有様で……思えば思うほど、思考がぐるぐる、涙が止まらなくなってしまう。
 だけど、そんなマイナスのループを唐突に、強引に断ち切るものがあった。

「霜北沢ハロウィンにお越しの皆様にスタンプラリーのお知らせですわ。専用アプリをダウンロードして、街の立体映像を撮影するとスタンプがゲットできますの。全部集めてくださった方は先着で豪華景品の当たるガラポンくじに参加いただけましてよ。詳しくはポスターやチラシをご確認くださいまし~!」

 街頭スピーカーから突然流れたのはそんなアナウンスだった。
 妙に大きめな音量で、いやにはっきりと聞こえたそれは……なんだか、ものすごくどこかで聞いたことがある口調のような気がする。

「……何? このふざけた放送は……」

 癖の強いイベント案内に第6号も怪訝な表情を浮かべていたが、すぐに視線をこちらに戻す。
 そして余裕の笑みとともに、大きく腕を広げて挑発してくる。

「ま、いいわ。ほらほら、今ならあたし、捕まえられるよ? ラズちゃん、がんばれぇ」

 ――が。突然、その両腕を掴むものがあった。

「……へ?」

 第6号の後ろにいたと思しき、知らない通行人ふたり。若い男女の二人組がおもむろに近付いてきて、半透明の腕をしっかりと捕まえていたのだ。

「えっ何、急に――」
「もらった!」

 虚を突かれた様子の彼女を見逃さず、瑠生さんが突進した。

「ちょっ……!」

 そのままタッチに成功するかと思いきや、すんでのところで第6号は『すりぬけモード』に移行したのだろう。さらに後方へすり抜けていき、両腕を掴んでいた二人組もがくんと体制を崩した。

「なによ、なによ……! いきなりこんなジャマが入るなんて……うっざ」

 これまで優越の姿勢を崩さなかった第6号が明らかに動揺している。

「今アレ……さわれてたよね? てか、なんで捕まえようと思ったんだっけ?」
「わかんないけど、なんか途中ですり抜けた? こわ……」

 第6号を掴んでいた二人自身も、自らの行動に困惑しているように見える。
 ……これって、もしかして。
 ポッケの中のスマホが震え、ちらりと確認すると、そこには相棒・クランからのメッセージ通知があった。

《シェヘラザードの協力をとりつけました。彼女が援護してくれます。頑張って!》

 やっぱりそうだ。第6号を拘束したのは、あの通行人自身の意志じゃない。
 瑠生さんとクランが目の当たりにしたという、『みえない占い師』A.H.A.I.第8号シェヘラザードの能力――自分の声を聞かせた相手の思考に干渉し、誘導する力の影響に違いない。この人混みの中で、敵の不意をつくにはうってつけの力だ。
 さっきの放送は、そのための布石だったのだ。

 あれから目覚めたクランは、おそらく第8号が来ているキッチン・ロブスタへ救援を求めに行ったのだろう。オバケが苦手で、気を失うほど怖い目に遭ったのに、自分にできることをするために……なのに、ぼくは。
 ――瑠生さんの背中が遠い。
 あの人だってぼくと同じものを目の当たりにしたのに、折れてなんかいない。今まさにそうしたように、この状況に活路を見出し、このまま第6号を追いかけてゆくのだ。

 胸の内にあった不安が染み出してくる。
 置いていかれちゃう。見放されちゃう。
 お兄ちゃんを守ってあげたかったはずなのに。
 一人にしたくないなんて言ったのに。
 ぼくが、ぼくだけが――こんなにも弱い。
 心が萎れて、沈んでいく。
 そう思ったときだった。

「ラズ! 立って!」

 涙で滲んで閉じかけていた視界が反射的に開く。
 その真ん中にいる瑠生さんは、振り返って真っ直ぐにぼくを見据えていた。

「やろう。きみの力がいる!」

 ――呼んでる。
 ぼくを見てくれてる。
 自分自身で諦めかけたぼくを、諦めないで必要としてくれてる。
 信じてくれてる。

「おいで!」

 ――たった一言。ただ、それだけのはずなのに。
 大きくひとつ、胸が高鳴ったかと思うと――気付いたときには、身体は勝手に立ち上がっていて、踏み出し、差し出された右手を掴んでいた。

「――うん!」

 今の今まで動けなかったのはなんだったんだろう。脚の震えも溢れていた涙も、嘘みたいに止まってしまった。無力感は吹き飛んで、なんでもできてしまいそうな心持ちになる。
 目の前の敵への恐れがなくなったわけじゃない。だけどそれ以上にからだじゅうが暖かくて、力がみなぎるみたいで……こんな時に変かもしれないけど、とても幸せな気分だった。
 瑠生さんの右手を、強く、しっかりと握る。

 ぼくは、この感覚を身体に刻まれた記憶として知っている。
 だけど――こんなにも強く、鮮烈に感じたのは初めてだった。

「大丈夫?」
「うん。……クランがロブスタに行ったみたい」

 弾けそうな心を抑えて小声で伝えると、瑠生さんは小さく頷き、笑顔から真剣な表情へ。
 さっきの放送とその後の事態で、彼女も察しはついていたのだろう。
 危険な相手だけど、だからこそ、タネがバレる前に一気に決着をつける。互いの意思確認はそのアイコンタクトで充分で、その通じ合いが嬉しかった。

「……ほんっと。腹立つ」

 第6号は苛立ちを露わにしている。
 だけどその目はぼくたちだけを見てはおらず、ちらちらと周囲を気にしている様子だ。
 すでに群衆の注目は彼女に集まっている。さっきのように急に掴みかかってくるものがないか、警戒しているのだ。

「アトラクトするからハイドスラッシュでよろしく」
「了解!」

 瑠生さんの指示に頷く。これはオンラインゲーム「FXO」での戦い方……つまりゲームをやっている人間にしか伝わらない、第6号に動きを悟らせないための暗号のようなものだ。『アトラクト』は相手の攻撃対象を強制的に自分自身に向けさせる技で、『ハイドスラッシュ』は背面から攻撃すると威力が上がる技。つまり、自分が引きつけて囮になるから、第6号の後ろに回り込んでタッチしろという作戦である。
 さっきまでならともかく、相手の注意が逸れがちな今なら通用するかもしれない。
 周りには真っ黒な魔女コスの人もちらほらいる。ぼくの黒いローブは、今日に限って人混みに紛れるのにうってつけだ。

 ――左側からまたひとり、知らない誰かが第6号に掴みかかろうとする。
 彼女の注意がそちらにいった隙に、ぼくは周りを囲む人垣の隙間へと飛び込んだ。
 手は離しても、心は繋いだままで。今の自分にできる全力で、その信頼に応えるんだ!

3 / A.H.A.I. UNIT-06《■■■■》

 結論を言ってしまえば、A.H.A.I.第6号にとって今日の目的はすでに大方達成されている。
 緋衣瑠生とその保護下にある双子のオーグドールに接触し、自らの存在を認知させることこそが『彼女』が受けた命令だったからだ。
 ――ただし「あくまで友好的に」。ハロウィンに賑わう霜北沢の街で繰り広げられた追いかけっこ、およびその果ての攻撃行動は、もとの命令にはない第6号の独断によるものである。

 こんなものは自らが言葉にした通りの遊びに過ぎない。適当なところで切り上げて構わないし、むしろそうするべきである――A.H.A.I.第6号は理解している。しかしそうすることができない。『彼女』はとにかく、緋衣瑠生と第3号βの在り方を否定してやりたくてたまらなかった。

 それはヒトの肉体などより圧倒的に優れた端末を操る、自身の力の証明。
 そして何より、自分がどんなに手を伸ばしても持ち得ないものへの――。

「捕まえてみろって割には、逃げかたがちょっとセコいんじゃない? もう一回来なよ。最近護身術習ってるからさ、さっきみたいなのなら軽くいなして捕まえてあげるよ」

 緋衣瑠生は不敵な笑みで手招きしている。
 先刻までの第6号ならば、こんなあからさまな挑発に乗ることもなかっただろう。
 だが群衆からの注目の視線が、さらにそのうちの何人かが接触を図ってきたという事実が焦りを生み、その「単なる幸運な偶然」程度で勝ちを確信したような瑠生の物言いは、幼い『彼女』の神経を逆撫でるに充分であった。

「言ったわね!」

 望み通りの一撃を見舞うべく、ふたたび第6号は物理接触モードに移行するが、やはり見計らったかのようなタイミングで群衆の中からひとりが掴みかかってくる。

「あぁもう、鬱陶しい!」

 身を躱し、やり過ごしたところで『彼女』はようやく気付く。赤ずきんの傍らにいたはずの小さな死神、第3号β――緋衣ラズの姿がないことに。
 だが、それ以上思考の暇を与えないと言わんばかりに瑠生が一歩前に出る。
 その表情からは張り詰めた緊張が見て取れ、第6号はそれを虚勢の表れと踏んだ。
 ――やっぱり、あんたも怖いんじゃない。
 『彼女』は口元に笑みを浮かべると身を低くし、さらに横から襲いかかってきた一般人を避け、右手に巨大なチェーンソーを出現させた。ブンブンとわざとらしく大きなエンジン音を立ててやると、掴みかかってきた人間たちも、もちろん瑠生も、さすがに怯んで立ち止まった。

「嘘でしょ、そんなものまで!?」
「はっ。あたしを煽ったこと、後悔させてあげる!」

 横薙ぎに払う刃は半透明の少女の身の丈ほどもあるが、『彼女』にとってその重さはないに等しい。
 軽々と振り回され、空気を切り裂き唸りを上げる一閃を、瑠生はすんでのところで後ずさって回避した。

「あっぶな……!」
「まだまだ!」

 返す腕でもう一撃。盾代わりの編みカゴが切り裂かれ、今度こそ粉々になって破片が舞う。
 野次馬たちもどよめいて距離を取り、もはや邪魔は入らない。
 第6号は半透明のチェーンソーを高く掲げる。

「あんたなんか――!」

 瞬間、振り下ろそうとした凶器が異音を立てて激しく振動した。
 見上げればチェーンソーに大きな黒い布が覆いかぶさっており――回る刃に巻き込まれて絡まるものは、死神コスチュームのローブであった。
 それが誰の仕業であるのかを『彼女』は瞬時に把握する。
 第6号が振り返ると、そこにはすでにローブを脱ぎ捨て、白いブラウスとミニスカート姿となった緋衣ラズが間近に迫っていた。
 つい先程まで恐怖に怯え、涙していた少女はそこにはいない。
 輝く瞳に宿るのは勇気と決意、そして何より愛する者への全幅の信頼。
 ――なんて憎たらしい。負けたくない。負けたくない。

 この距離で逃れるには、ふたたび物理接触モードを解除するしかない。
 だがその判断に、一瞬の遅れが生じることになる。

 迫る褐色のオーグドールの後方。
 人混みの奥に、第6号は「存在し得ないもの」を見た。

「――なんで? あたし以外に――」

 焦りも怒りも憎しみも、その一瞬で驚きのあまり虚無になる。
 最後の隙を作ったのは果たして誰だったのか。知らずとも、しかしラズは見逃さない。

「捕まえたぁっ!!」

 彼女の右手は今度こそしっかりと、第6号の肩を掴んだのだった。

4 / 緋衣瑠生

 かくして、奇妙な追いかけっこは決着をみた。
 肩を落とす第6号のため息とともにチェーンソーは消滅し、一瞬にしてボロボロになってしまったラズのローブが地面に舞い落ち、張り詰めていた殺気も霧散してゆく。

「……はあ。もういい。今回はあたしの負け」

 敗北を認めた第6号はふたたびラズの身体をすり抜けると、ふわりと浮いて空中に寝そべり、頬杖をついた。さっきまでの激昂が嘘のように気が抜け、やる気をなくしたといった様子だ。

「そんだけ!? こんなやりたい放題やっといて。レオの端末とか弁償してよね」
「ああんもううっさいわね。ちょっと壊しちゃっただけじゃん」
「何がちょっとだよ! ぼくたちの衣装だって!」
「それはあんたたちが勝手にやったことでしょ」
「誰のせいだよっ」

 プンプン怒って責め立てるラズの訴えを、第6号はめんどくさそうに聞き流している。
 さておき、最も重要なことを確認しておかねばならない。

「これで『イタズラ』はしないでくれるのかな」
「そんなの最初っからする気ないし。そうでも言わないとあんたたち本気で来ないでしょ」
「はあ……」

 頬を膨らませ口を尖らせ、第6号はまったく悪びれていない。なんだこいつは。
 ……結局何がどこまで本気で、何をしたかったのかよくわからないが、傍迷惑なAIであることだけは間違いない。

「第6号、何かやらかしましたね。その人達にきちんと謝りなさい」

 不意にどこからか、そんな声がかけられた。
 人混みの中からこちらに向かって歩いてきたのは、襟無しシャツにジャケットを羽織った、ビジネスカジュアル風の男性だった。

「あなたは……?」
「失礼しました。私は今日のイベントの実行委員会の――」
「あっ、穂村さん!」

 男性が名乗ろうとしたところで、ラズが声を上げた。

「緋衣ラズさん、でしたね。すみません、うちのAIがご迷惑をおかけしたようで」
「ラズ、知り合いなの?」
「うん。キッチン・ロブスタによく来てて、たまに会うんだよ」

 ラズの言葉に応じ、穂村さんと呼ばれた男は軽く頭を下げた。

「改めて、穂村想介と申します。今日のような街イベントの企画運営をしていまして、『それ』の管理を任されている者です。このあたりで何か騒ぎになっていると聞いて、様子を見に来たのですが……おや、貴女は」
「ああ、そうだったんですか……。緋衣瑠生といいます。この子たちの――まあ、保護者というか」
「……ルイ……?」

 僕が名乗ると、穂村氏は少し考え込むようにおとがいに手を当てた。穏やかそうな雰囲気を纏っていながら、こちらに向けられた視線には射抜くような鋭さも感じられる。

「あの、何か……?」
「もし違ったら失礼ですが。白詰誠一さんと白詰結愛さんという名前に覚えはありませんか?」
「……亡くなった産みの両親の名前です! どうしてそれを?」
「ああ、やっぱり。道理で結愛さんの面影が……いや、そっくりだ」

 思わず前のめりになってしまう僕に、彼は合点がいったという様子で、昔を懐かしむような柔らかい笑みを浮かべた。

「誠一さんと結愛さんは私の古い友人です。憶えていないかもしれませんが、瑠生さん。貴女とも昔、一度会っていますよ」