1 / 緋衣瑠生
――なんというか、最初はお互いそうでもなくて、気が合いそうだからお試しみたいな感じで私がお付き合いを持ちかけたんですよ。
――だけど私のほうが調子に乗って、進展を急ぎすぎて『めっ』てされちゃったんですね。
羽鳥青空先輩が語った始まりと終わりは、概ねそのとおりだが細部が端折られている。
気が合いそうというのは、互いに自分と同じにおいを相手に感じたからで、僕と先輩の共通点は抱えていた疑問であった。
つまり。誰かを好きになるということ、恋をするということがどういう感じなのかわからない、ということ。
形から入ることで、それがわかるかもしれない――それが先輩の説であり、僕はそれをなるほどと思い、話に乗った。先輩の言う、お試しみたいな感じとはそういうことである。
そうして一応お付き合いという関係にはなったものの、僕にも先輩にも特別大きな変化はなかった。いつも離れた位置で本を読んでいたのが同じテーブルになって、少し会話が増えただけだ。
そんな状態で四日を過ごし、金曜日の夕暮れ時。
もう一段階形から入ってみようと持ちかけられた僕は、ふたたび話に乗ったものの、目前に迫る彼女の唇を、反射的に押しのけるという形で拒絶してしまった。先輩の言う、進展を急ぎすぎたというのはそういうことである。
かくして羽鳥先輩の説の検証は志半ばにして終わり、僕が得たのは「わかりませんでした」という結果と、それきり疎遠にしてしまった先輩への後悔だった。
「送ってくれてありがとうございます。……それと、あの時はすみませんでした、先輩」
「いえ、あれは私のやらかしで……瑠生ちゃんの反応は普通だと思います。謝るのは私のほう」
車を降りて別れ際、ずっと胸につかえていた言葉を告げると、彼女はそう応えて微笑んだ。
「別にあれで、先輩のことが嫌いになったとかではないんです。ただ、本当にどうしていいかわかんなくなっちゃって」
今にして思えば、何をするでもなくただ近くで本を読むという、五日間だけの付かず離れずの距離感を、僕はわりと気に入っていたと思う。
結局、その心地よい距離が「よくわからないもの」になってしまうかもしれないことが――僕は怖かったのかもしれない。
それを知りたいと、理解したいと、思っていたはずなのに。
「私もあのあと、結局あなたにどう接していいかわからなくなって、声をかけられなくなっちゃって……案外、そういうところも似てたのかもですね、私たち」
――ごめんなさい、やっぱムリです――あの日そう突き放してしまったときの、先輩の寂しそうな笑みは……そのまま今と同じ顔だった。
「今日、先輩とまた会えて、もう一度話せて良かったです」
「私も、また瑠生ちゃんと話せて嬉しかった。なんだか変な巡り合わせだったけれど……今日は本当にご迷惑をおかけしてごめんなさい」
「それはもう大丈夫ですって。……いや、死にそうにはなりましたけど」
「ホントに。本当にごめんなさい」
「ああいや、違うんです。ホント大丈夫です。ほら、このとおり無傷ですし」
そうして何度か、僕と先輩はぺこぺこと頭を下げあった。
「瑠生ちゃん、雰囲気変わりましたね。昔はもっと、人を寄せつけない感じでした」
「……そうですかね?」
「そうですよ」
とぼけてみるものの、心当たりはすごくある。
高校時代は最も他人との交流が薄かった時期と言ってよく、その原因は自分にある。過去の自分を思うと、僕は第5号の感じ悪い物言いをあまり責められない。
「それがこんなのびのびとした姿を見せてくれるなんて。これも双子ちゃんのおかげなのかな? ……それじゃ、私たちはこれで」
「はい。お気をつけて」
最後にそう言葉を交わして、懐かしい先輩は自動車を発進させた。
遠く小さくなってゆく車を、ラズは大きく手を振り、クランはじっと見つめて見送っている。
――双子ちゃんのおかげ。それまさにそのとおりで。自分では彼女たちに寄り添ってあげたい、守ってあげたい、などと思って保護者ぶってはいるものの、その実、側にいて安らぎを与えられ、心を解きほぐされているのは僕のほうだ。
クランとラズの存在は、僕にとって今や……もとい。だいぶ前から大きな精神的支柱であることは疑いようがない。
二人の中にある心をどう受け止めるべきか、僕は未だ答えを出せずにいる。
……だけどそれは。結局、このあいまいで心地よい距離が、関係が、「よくわからないもの」になってしまうかもしれないことを――僕は怖がっているのかもしれない。
「「……お兄(さま/ちゃん)?」」
僕の視線に気づいたのか、クランとラズは首を傾げていた。
わからないなりに真剣に向き合って、受け止めて、答えを出さなければならない。いつかそんな日がやってくる。大切な友達で、家族で、なにものにも代えがたい、そんな二人の気持ちを――僕は怖がっていてはいけない。
少なくとも今日、それだけはわかったと思う。
「あ、ううん。……ちょっとぼーっとしてた」
「今日はたいへんな目に遭いましたからね」
「おうちに帰るまでが遠足だよ、お兄ちゃん」
「遠足か……もう行きたくないなあこの遠足……」
三人揃って振り返れば、そこは安心の我が家だ。
「ものすごく久しぶりに帰ってきたような気がする……」
「そうですね。距離的にもたいへんな遠出をしたわけでもないのに……」
「ぼくも、もうクタクタ……お腹すいちゃった」
そんなこんなでようやく、僕と双子は自宅マンションへと帰り着く。
……まず全員の総意として、一刻も早くシャワーを浴びたかった。
部屋がふたつあることのアドバンテージを活用し、僕は二〇二号室、クランとラズは二〇一号室の風呂場へと駆け込んだのだった。
2 / 緋衣ラズ
ラズは運動部だから、と言って、クランは先にシャワーを浴びる権利を譲ってくれた。
髪を乾かして落ち着いたら一気に眠くなってしまいそうだったので、ぼくはそうならないうちに二〇二に戻ったのだけど、髪についた消火剤に苦戦していた瑠生さんが風呂場からあがってきても、クランはなかなかこっちにやってこなかった。
「クランー? 生きてるー?」
様子を見に二〇一へ戻ってみると、相棒は顔面を枕に乗せて、ベッドの上に突っ伏していた。かろうじて髪は乾かしたみたいだけど。
「あれ、寝ちゃった?」
声をかけると「おきてますう」と反応があったけれど、起き上がる気配はない。
「もうすぐお姉ちゃんも来るし、みんなで出前のメニュー決めよう、よっ」
ぼくが倒れ込むように隣にうつ伏せると、クランはちらりとこちらを向いた。
ものすごくしょんぼりした顔をしている。たぶん、捨てられた子犬みたいな目って表現はこういうのを言うんだろう。
「……どしたの?」
「うう……ラズ。わたしなんだか、とっても情けないよう……」
「今朝のこと?」
「それもあるし、さっきのことも。わたし、羽鳥さんに嫉妬してた」
「してたね」
「あうう……」
うじうじモードのクランは、とうとうブランケットまで頭に被ってしまった。
羽鳥さんを牽制し、瑠生さんを問い詰めていたときのギラギラした感じは見る影もない。
「むかし、お兄さまとお付き合いしてた人だって」
「でも五日間だけらしいよ」
「そのわりに最後にお話してるとき、なんだか通じ合ってる感じだった。五日間だけなのに」
「気が合いそうだったから、って言ってたくらいだしね」
それになんだか悔いが残っていたみたいだし、その五日間の後も、お互いに意識はしていたんだろうと思う。
「お兄さまの先輩さんで、お仕事してる社会人さんで、なんだかデキる人って感じで」
「アウタースペースをあんなに流行らせたんだって。すごいね」
「「しかも美人さん」」
最後の一言が重なる。思っていたことは同じみたいだ。
「もう! ラズはどっちの味方なのっ」
相棒はブランケットに引きこもって、もごもごと弱々しく怒っている。
「味方も何も、クランは嫌いなの? 羽鳥さん」
「そうじゃないけど……あんな人に出てこられたら、お兄さまがとられちゃう」
「大丈夫だよ、とらないって言ってたじゃん」
「うーっ……そうだけど! もしそうなったらわたし、勝てる要素がないもん……」
これはいけない。今朝の件とのコンボで、自己肯定感がマイナスに振り切れている。
ここまでのことは初めてだけど、クランが落ち込むことは今までにも何度かあった。
ただ……学校の友達や猫山さん、時には瑠生さんにさえ見せようとしないよわよわな本音を、ぼくには晒してくれる。そのことは、少し嬉しい。
「そんなことないと思うけど。クランがお兄ちゃんたちのピンチに真っ先に気付いて、真っ先に立ち向かって、今日一番頑張ってたの、ちゃんと知ってるよ」
第5号を抜きにしたら、今日のクランの奮闘をいちばん近くで見ていたのはぼくだ。
「それに、お兄ちゃんのことを好きって、いちばん強く思ってるのがクランだってことも」
「お兄さまを好きなのは、ラズだってそうでしょ?」
「そうだけど、クランの気持ちには負けちゃうよ」
人のことはよく見ている相棒だけど、自分がどれだけ好き好きオーラを放っているかは、あんまり自覚がないみたい。
学校生活を除けば、クランをいちばん近くで見ているのはぼくだ。
だからこそよく知っているつもりだったその想いの強さを、今日はあらためて目の当たりにした気がする。
瑠生さんのことは自分でも好きだけど、ぼくはこの相棒の気持ちが叶ってほしいと思う。応援したいと思う。
瑠生さんも同じくらいクランのことを好きになって、ふたり並んで歩んでゆく――そうなったら、その姿はきっとすごく素敵だと思う。
だけど……もし二人が結ばれたら、そのときぼくはどうなるんだろう。
今の三人から、ふたりとひとりに。
そうなったとき、ぼくの居場所は……。
「わたしたち、まだお兄さまのこと全然知らない」
「……そうだね。でも、これからいろいろ知っていけばいいんじゃない?」
だって、これからもずっと一緒なんだから。
――喉まで出かかっていたその言葉を、ぼくは言うことができなかった。
「二人ともー、寝ちゃった?」
そんな呼びかけとともに、二〇一の扉が開く。結局ぼくが一向に戻らないので、瑠生さんがこっちへやってきたようだ。
それを察知したクランは、ブランケットにしっかりとくるまって、丸くなってしまった。
「あっ、もー! 出てきなよぉ! クランってば!」
「……なにしてんの?」
殻にこもったクランとそれを引っ張るぼくを、瑠生さんは困惑したような顔で見つめていた。
3 / 緋衣クラン
いまは会いたくない、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
そう思っていたはずなのに、お兄さまがここに来てくれて嬉しい。
だけどやっぱりこんな顔を見られたくなくって、ブランケットを剥がそうとするラズに抵抗してしまう――わたしは今、最高にめんどくさい状態になっています。
「クラン! さっきはふつうにお兄ちゃんと喋ってたじゃん!」
さっきはさっきです。自分でもわからないのです。どうにもできないのです。
「クラン? 出ておいで」
瑠生さんがベッドの縁に腰掛け、左隣をぽんぽんと叩いているのが、振動でわかりました。
……一瞬の迷い。
心細くてそばにいたい。だけど後ろめたくて見られたくない。相反する思いの結果、わたしはブランケットを被ったままのそのそと這って、呼ばれたいつもの定位置につきました。
「どうしたの、そんな引きこもって」
「……お兄さま、ごめんなさい。クランは今朝みたいなこと、もうしません。お兄さまがああいうこと嫌だって、知らなくて」
「ああ……やっぱり、ラズから聞いちゃった?」
小さく頷くと、瑠生さんの右隣に座ったラズが「うっ」と呻くのが聞こえました。
「怒ってるわけじゃないよ。嫌っていうのとも、ちょっと違うんだけど……ちゃんと言わないでごめんね」
「帰るように言われたのに、たくさん危ないことしてごめんなさい」
「それも怒ってないよ、助けてくれてありがとう。……だけど僕も、きみたちが怪我するようなことがあったらって思うと、すごく怖いんだ。それだけ絶対忘れないでね」
瑠生さんはわたしたちの頭を胸に抱き寄せて、いつものように優しく撫でてくれて。石鹸の柔らかな香りとともに、わたしはその言葉をしっかり胸に刻みます。
「ほんとに、無事で良かった」
この人はいつも、わたしたち二人のことをいちばんに考えてくれている。……たとえ、自分がいちばん危ない目に遭っていても。
わたしは今も自分のことでいっぱいいっぱいで、やっぱりまだまだ未熟な子供なのだと、あらためて思い知らされてしまいます。
「それから、お兄さまの先輩さんを威嚇してごめんなさい」
「もう、クラン。そんなに謝らなくても、僕も先輩も怒ってないよ。よしよし」
被っていたブランケットがはらりとずれて、わたしは結局しょんぼり顔を晒してしまいました。
「元気出して。ほんとに今日は、感謝してるんだよ」
瑠生さんがそう言って目を閉じたかと思うと――わたしの額の真ん中に、暖かく柔らかいものが触れました。
「お兄さま……?」
「その……唇同士だとちょっとあれだけど、これなら、ね?」
それは、優しいおでこへのキス。
はにかむような笑顔が、普段はあまり見せないその表情が、とてもまぶしい。
――胸に渦巻いていた焦りやみじめさは、一瞬でなくなってしまいました。
「ああっ……! クランずるいっ、お兄ちゃん!」
「待って待って、そんな引っ張らないでって」
そうしてラズの額にも、瑠生さんは同じように口づけます。
艶やかな横顔で瞼を閉じて、こわさないように、大切に……そんな様子でそっと触れる、親愛のしるし。
見惚れていると、とっても満足げなラズと目が合って。
わたしは自然と――きっと相棒と同じ、満面の笑みを返すことができました。
「あー……もう。やっぱちょっと恥ずかしいよ、これ……」
瑠生さんは顔を赤くして上のほうを向いてしまいます。
――慣れないはずのことを、苦手なはずのことを、それでもわたしたちのためにしてくれた、初めての贈りもの。それがたまらなく嬉しくて、こころが満たされてゆく。
本当に、優しくて、綺麗で……可愛らしいひと。
そう。わたしは子供で、瑠生さんや鞠花さん……そして先輩さんのような大人ではない。
瑠生さんがくれるこの愛情は、きっと子供を守り育てようとする、保護者や家族としてのもの。
相手のことが欲しくて、ひとり占めしたい、そんなわたしの気持ちとは違う。
ほんとうは今すぐ想いを打ち明けたい。
できることならお兄さまにも自分と同じ気持ちになってほしい。
……だけど、きっと今はこれでいい。これがいいのだと思います。
わたしは、わたしたちは、まだまだこの人のことを知らない。
ラズも言っていたとおり、もっとたくさんを知って、自分も大人になって、あこがれだけじゃなく、しっかり隣に立てるような人間になりたい。
そのための時間は、これから先たくさんある。それに何より、この家族としての気持ちも……とてもとても、暖かくて嬉しいものだから。
「ありがとう、お兄さま。大好きです」
「ぼくも。大好きだよ、お兄ちゃん!」
わたしたちは、わたしは想いを口にする。
――今はまだ「家族」としての気持ちを。