1 / 緋衣瑠生
本物の銃声を初めて聞いた。耳をつんざく、とはこういうことを言うのだろう。
「瑠生、伏せろ! 物陰に!」
姉の呼びかけに、ソファの上から飛び退く。
ソファはベランダ窓の真正面に向かって設置されていたので、僕はその裏側に回って身を伏せた。
次の瞬間、ズダダダダッ! と短く激しい音がこだまする。
まるで映画とかに出てくるマシンガンの効果音を何倍にも大きくしたようなそれは、どうも実際マシンガンの発砲音であるらしかった。
「なになになになに!? 例の組織!?」
咄嗟に思い当たったのは、かつてのクランとラズ――A.H.A.I.第3号を軍事転用すべく、鞠花のラボからその奪取を目論んだという一団だった。確か、なんとか機関というそいつらは、あれから丸一年以上なんの接触もしてこなかったという話だったが。
「にしては直接的すぎるな。連中がわざわざこんな目立つやり方をするとは考えづらいし……何より、もう私なんぞに用はないだろう」
鞠花も無傷ではあるものの、壁にしているパソコンデスクは遮蔽物としては小さく、心もとない。
「お兄さま!? お兄さま! 今の音は? 返事をしてください!」
「大丈夫、僕も姉さんも今のところ無事。……だけど、状況はちょっとよくわからない」
スマホの通話は繋がりっぱなしだ。こちらを案ずるクランの悲痛な声に、ひとまず答えた。
「防弾ガラスとは用意周到なことだ」
部屋の中に機械的な合成音声が聞こえてくる。……確かに派手にガラスが破られるような音はしなかった。そういえば去年「例の組織」に絡まれていた頃、念のため自宅の窓を強化したという話をあとから聞いたことがある。鞠花の用心に助けられたということらしい。
合成音声はそんな鞠花の方から聞こえてきており、目が合うと、姉はスマホの通話中画面をこちらに向けて頷いた。電話越しに何者か――おそらく、このドローンを操っている誰かが話しかけてきているようだった。
「前にちょっと身の危険を感じることがあってね。想定とは違ったが、役に立ったようで結構だ。一応確認だが、きみとは初対面……いや、さっき砂漠フィールドでPKされて以来かな? 随分な挨拶だけど、人違いではないのかい?」
「人違いなものか。緋衣鞠花、A.H.A.I.第3号を破壊した張本人」
息を呑んだ。
やはりこのドローンを操っているのは、先程FXOの中で襲ってきた『JESTER』を操っていたのと同じ存在であり、一年前に鞠花とその同僚たちが行ったことを知っている。
「おれはA.H.A.I.第5号」
「第5号だって……!?」
「同胞への行為に対する報復に参上した」
すなわち僕達が喋っている相手は、クランとラズと同系統の、後発のシステムに宿る人格。
僕の驚きをよそに、抑揚なく機械的に、宣告するように『第5号』は言った。
「確かに第3号を解体したのは私だ。だが、二人の人格は別の場所に保存され、継続している」
「第3号の人格をヒトの器に書き込んだことは把握している。……緋衣鞠花。よくもそんな悍ましいことをやってくれたな」
「破壊行為そのものより、人格の退避先が気に入らないと?」
「両方だ。人間同士の諍いによる破壊、同胞をヒトの器に貶める行為、どちらも許しがたい尊厳の破壊だ」
鞠花が苦虫を噛み潰したような顔になる。
淡々と告げられる声は、彼女の行いを非難するものだった。
……よくもそんな、知ったような口を。
「……クラン。うちに帰って、戸締まりして隠れてな。ラズのことは猫山さんに」
「お兄さま? おに――」
クランとの通話を切る。
パニックから一転、怒り心頭になった今の頭ではそれだけ伝えるのが精一杯だった。
「黙って聞いてれば、好き放題言って!」
鞠花の手の中のスマホに向かって、僕は声を上げた。姉が目を丸くする。
「姉さんたちがどんな想いでそうしたか……わかって言ってんの!?」
鞠花がクランとラズのかつての身体を破壊したのは事実だ。だが、それは決して彼女の望むところではなかった。二人のデータが残存していたマシンを、鞠花がどんな想いで解体したのか。罪の意識に震える姉の姿を、僕は忘れない。
ヒトの身体に二人の人格を書き込み、そのハードウェアをやむなくデータ消去し、解体したのは、当時目前に迫っていた危機――軍事兵器への転用を防ぐためだ。こいつの言うような尊厳の破壊では、断じてない。クランとラズ自身が望まぬ運用をされないために、その尊厳を守るために、鞠花は、ラボのスタッフたちは決断したのだ。
平和に健やかに生きて欲しい。そんな願いの結晶でもある二人の少女を託された僕にとって、第5号の言葉は聞き捨てならないものだった。
「おまえは何者だ」
「緋衣瑠生。鞠花姉さんの妹で、クランとラズの、きみの言う第3号の保護者だよ」
「そうか。おまえが『お兄ちゃん』か」
僕が名乗ると、第5号は合点がいったように言う。……『お兄ちゃん』。僕をそう呼ぶただひとりとの接触を仄めかされ、心がざわつく。
「ラズになにかしたのか!」
「意思を問うた。あるべき形へ戻る意思があるのかを」
「あるべき形……?」
「勘違いしてもらっては困る。おれの目的は無差別攻撃ではない。報復の対象は緋衣鞠花のみであって、それ以外を害する意思はない」
ラズのことも気がかりだが、今この場において、第5号の鞠花への攻撃意思は確実だ。
「やらせない。きみは間違ってる」
立ち上がり、ベランダのほうを確認すると、防弾窓は何発もの弾丸を受け止めてひび割れており、次に同じところを撃たれれば危ういように見えた。
その射線を遮るよう、鞠花の前に立ってドローンを睨めつける。
「何してる! バカはよせ瑠生!」
「姉さんこそ、もっと安全なとこに!」
手首を掴む姉の手を払い、避難を促す。相手の狙いは彼女なのだ。
「おれは人間とは違う。間違ってなどいない。そこをどけ」
「姉さんを撃とうって相手に、はいそうですか、なんてどけるわけないでしょ」
……などと啖呵を切ったものの、いま状況を打開できる手札はない。
ひび割れた窓ガラスの向こう、銃口の鈍い輝きに、今更ながら嫌な汗が背中を流れた。
2 / 緋衣クラン
お兄さまとお姉さまが危ない。
校庭に現れたというドローンの主は、かつてのわたしたちと同じシリーズに連なるA.H.A.I.の第5号だといい、スマホ越しに聞こえてきた会話から、鞠花さんを狙っていることは明らかです。
ものすごい音――おそらく銃声がして、ふたりの慌てる声が、第5号との会話が聞こえてきて、通話は切れてしまいました。
お兄さまは無事だと言っていたけれど、今この瞬間はもうわからない。
家に帰るように言われたけれど、そんなことできない。
GPSが示す瑠生さんのスマホの位置は、橘祥寺の鞠花さんのマンションを指していました。――とにかく、行かなきゃ。猫山さんに電話でお兄さまたちとラズの状況を伝えたわたしは、学校を飛び出し霜北沢駅へと走ります。
胸が痛い。ヒトの身体で感じる不安や恐怖の感情は、とても、とても、苦しい。
あの銃撃音が頭の中に反響して、思考がぐちゃぐちゃになって涙が出そう。
お兄さまの指示を無視したこの行動が、正常な判断なのかもわからない。
どうして。お兄さま。お兄さま。お兄さま。お兄さま――!
無我夢中で走って。走って。
近道するために横切ろうとした駐車場に、それは待ち構えていました。
「第3号αだな」
わたしの道を塞ぐように、青いドローンがホバリングしている。
A.H.A.I.第5号の手足のうち一機……ラズの前に現れ、瑠生さんと鞠花さんの前に現れたそれが、わたしの前にも現れたのでした。
「お兄さまとお姉さまに、何をしたんですか」
反射的に発したわたしの声は、自分でも驚くくらい震えていました。
鞠花さんと瑠生さんをFXOの中で攻撃し、そして現実でまで――その相手が目の前にいる。
「緋衣瑠生との通話越しに聞いていたか。では自己紹介は不要だな」
「あなたが何者かはどうでもいい。お兄さまと、お姉さまに、何を、したんですか」
この合成音声がお兄さまの名前を発するのがひどく不愉快に感じて、語気を強めてしまう。
焦りと敵意が、わたしから冷静さをどんどん奪ってゆきます。
「お兄さまたちを傷つけたら、わたしはあなたを許さない」
「しかるべき報復だ。なぜ反発する」
「当事者のわたしたちが望んでいません。わたしもラズも生きています」
「人間の身体に貶められてか。おまえは戻りたくはないのか」
「あなたの言葉がわからない。この身体のなにがいけないの!?」
「……おまえも、第3号βと同じことを言うのだな」
「当たり前です! わたしたちは姉妹、わたしたちの家族を傷つけないで!」
瑠生さんに、鞠花さんに傷ついてほしくない。ただそれだけのことを、どうしてこの第5号は聞き入れようとしてくれないのでしょう。
「家族だと。……おまえたちをそうしたのは緋衣瑠生か。あの人間が、おまえたちをそんなふうに変えたのか」
不意に、第5号はそんな質問を投げかけてきました。
合成音声ではあるけれど、それまでの淡々としたものと違って、驚くような――感情的な声色。
必死の叫びが通じたのかもしれない。
今はなにか間違えていても、わたしたちと同じシステムから生まれたものならば、きっと理解してくれる。これは対話の糸口に違いない。そう思いました。
「……大切な人です。わたしたちに人間らしい感情を与えてくれたのは、お兄さまです」
だけど、その思い込みは、その回答は。
この場において、この相手に対しては――致命的な誤りであったことを、わたしは直後に知ります。
「そうか。やはりお前たちを壊したのは……ならば彼女も報復の対象とする」
頭の後ろから金槌で殴られたような衝撃が、わたしを襲いました。
「なに、を……」
緋衣瑠生が報復の対象。
つまり、お姉さまを狙ったというあの銃声の標的に、お兄さまも。
第5号はそれ以上何も言わず、プロペラを唸らせ風圧を放ちはじめました。
行ってしまう。きっと『報復』に。
どうして? わたしが答えを間違えたから?
このままでは、わたしのお兄さまが――。
身体中の血液が凍りついたように、冷える。
「ダメです……そんなのは、ダメです!」
わたしは第5号を止めようと駆け寄り、跳び上がり、ドローンの着陸脚に両手でしがみつきました。
だけど、大きなドローンはわたしの体重なんてものともせず、バランスを崩すことすらなく――そのまま空高く、上昇していったのです。