1 / 緋衣ラズ
マンションの外階段を駆け下りて、すっかり馴染みになった道を走り進む。
天気は快晴。暑すぎず寒すぎず、あたたかな春という季節がぼくは好きだ。
ぼくたちの住んでいるこのマンションから霜北沢中学までは、徒歩十五分ほど。半分近く進んだところで引き返したから、戻る頃にはもう、相棒のクランは学校に着いているかもしれない。
この四月からぼく、緋衣ラズと双子の姉である緋衣クランは中学一年生になった。
日本の子供は、ふつう小学校に六年間通って中学に進学するものなんだけど、ぼくとクランはそんなに前から生きていない。
ぼくたちはもともと、およそ十二歳相当の知能を持つものとしてつくられたコンピュータデータ上の人格で、それに見合う肉体年齢の身体に書き込まれることで生まれた。
だから表向きの経歴上は現在十二歳ということになっているけど、人間としてはまだ二年目だ。
ぼくとクランは小学校に行っていないぶん、この一年で猫山さんや瑠生さんに、勉強や人間としての生活のことを教わってきた。
おかげで授業はそんなに難しく感じないし、新しい友達もできて、部活にも入って……瑠生さんやクラン、猫山さんと過ごしてきた時間とは違う、新しい世界を楽しんでいる。
白と紺色のセーラー服も最初はピンと来なかったけど、お兄ちゃんがかわいいって褒めてくれて、写真を撮りまくってくれたから好きだ。お兄ちゃんが喜んでくれるのは嬉しい。
『お兄ちゃん』こと緋衣瑠生さんは、ぼくとクランにとって特別な人。
AIシステムだったぼくたちに、オンラインゲーム『FXO』を通して優しく語りかけ、人の心のこと、外の世界のこと、いろんなことを教えてくれて――そして、人間の身体を得て生まれ変わったぼくたちを暖かく迎え入れて、抱きしめて、守ってくれた人。
リアルの瑠生さんはFXOのプレイヤーキャラと違って女の人だから、ほんとは『お兄ちゃん』ではないんだけど……しっくりくるからこう呼び続けている。
綺麗でかっこよくて、とっても優しい憧れの存在だ。
瑠生さんはときどきなにごとか考えに耽っていたり、思い悩んでいるようなときがある。
それは大学の課題のことだったり、将来の就職のことだったり、聞いてみるとぼくたちではあまり役に立てないようなことがほとんどで、そんなときでも瑠生さんは決まって「聞いてくれてありがとう」と頭を撫でてくれる。
嬉しいけれど歯がゆくもある。ぼくだって、もっと瑠生さんの助けになりたい。だけどきっと、それにはまだまだ経験値が足りないのだ。
瑠生さんにとってそういう問題を相談できる相手のひとりが、同じオトナである猫山さんなんだろう。今朝はたまたま忘れたペンケースを取りに家に戻ったら、瑠生さんと猫山さんの話し声が聞こえてきて――なんだかただならない話を聞いてしまった。
周りに、ぼくと同じセーラー服や学ランの子たちが増えてきた。みんな同じ方向を目指して歩いている。軽く走り込み感覚で通学路を辿っていたら、あっという間に学校の近くまでやってきたみたいだ。
そんな人混みの中に、馴染み深い後ろ姿があるのを見つける。
「クラン! 追いついたぁ」
「あっ、ラズ。早かったね」
「ラズは陸上やってるからね」
「この春に部活入ったばっかりでしょ。あんまり急いで、車道にとびだしたりしたら危ないんだからね」
ぼくの双子の姉、緋衣クラン。
二台一組のAIシステムとして起動したときからずっと一緒の、唯一無二の相棒だ。
ぼくたちの身体は瑠生さんの姉であり、コンピュータ技術の研究者である緋衣鞠花さんが、自分の細胞をベースにしてクローン培養装置でつくってくれたものだ。
肌色や髪色が姉妹で違うのは、FXOでのプレイヤーキャラに合わせて、鞠花さんたち研究スタッフが調整してくれたものだと思っていたのだけど、あとから聞いた話によるとそういうことはしていなくて、勝手にこうなっていたらしい。
ぼくたちが自分のアバターとして認識していた姿が、なんらかの影響を及ぼしたのかもしれない……と話していたけど、詳しいことはわからなかった。
とにかくそのおかげで、顔立ちは瓜二つだけど、どっちがどっちか間違われることはほとんどない。ほかにもお気に入りの髪型とか喋り方とか、生まれたばかりの頃と比べると、ぼくとクランはけっこう違ってきていると思う。二人とも最初のうちは自分のことを名前で呼んでいたけど、それも今は違う。ぼくが自分のことを「ぼく」と言うのは、瑠生さんに倣ってのことだ。
「どうかした? なにか考えごとしてる?」
「あー、ううん。たいしたことじゃないよ」
「……ほんと?」
そうやってじーっと見つめられてしまうと、視線が左右に泳いでしまうのが自分でもわかった。
クランは鋭い。ちょっと人見知りだけど、それでも人のことをよく見ていて、細かなことによく気がつく。ぼくの下手な嘘やごまかしなんかはすぐに見破られてしまう。
もちろん、考えていたのはさっきの瑠生さんと猫山さんの会話のことだ。
立ち聞きなんてする気はなかったのだけど、聞こえてしまったものは仕方ない。
仕方ないけど、どうしよう。クランに教えてあげたほうがいいのかな。
朝の一件でむっとしていたその顔は……一見、元通りの穏やかさを取り戻しているように見える。このまま瑠生さんとも元通りになってくれるといいんだけど。
お兄ちゃんのことはもちろんぼくも大好きだ。
ずっと見ていてほしくて、話していたくて、触れ合っていたい。褒めてもらえるととってもしあわせで、抱きしめてもらえるとほっとして、ドキドキする。
ただ、最近ときどきわからなくなることがある。
――AIとしての自分が抱いた『お兄ちゃん』へのあこがれ。
――この身体がもともと持っていた『緋衣瑠生』への強い思慕。
今のこの気持ちは、どっちなんだろう。
そんな疑問を持つぼくとは逆に、近頃のクランはより強く瑠生さんを求めているように見える。
時折見せる切なげな瞳は、妹のぼくでもドキッとしてしまうくらい。
クランは、ぼくのような疑問は持っていないのかな?
2 / 緋衣クラン
「クランちゃん、ホントに大丈夫……? 午前中ずっとそんな感じだったけど……」
「うう……大丈夫です、たいしたことじゃないです……」
四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、お昼休みになりました。
一年A組、教室の机に突っ伏したわたしを、隣の席の天田深月(アマダ・ミヅキ)さんが気遣ってくれます。強がろうとしてみても強がりきれない、相当たいしたことでした。
忘れ物の回収から戻ってきた相棒を、果たしてあの場で問いただすべきだったのか……彼女も気を遣って、人気のない校庭の隅っこのほうで話してくれたけれど。
わたし、緋衣クランは猛反省しています。
おのれの浅はかさを大いに恥じています。
わたしの大切な『お兄さま』――緋衣瑠生さんにとって、キスを迫られること自体が怖いもので、反射的な拒絶反応をもたらすもので、あまつさえ、わたしを傷つけまいと自制を強いてしまっていただなんて。
長い睫毛ときれいな鼻筋、つややかな唇を見つめながら、今日も起きてしまうのかな、それとも……なんて浮かれたことを考えながら、瑠生さんの寝顔に迫っていた自分がばかみたい。
今朝と同じことを、わたしは先月に一回やっています。しかも今日は駄々っ子みたいにごねて、挙句の果てにむくれて家を出るという駄目っぷり。
ただただ後悔と自責、その繰り返しの堂々巡り。深月さんの心配どおり、授業にもあんまり集中できていません。
――もしかしたら、過去に何かあったのかもしれない。
思えば、わたしたちと出会う以前の瑠生さんについて、わたしは多くを知らず、最近までそのことをあまり深く気にしたことがありませんでした。
過去に興味がなかったというよりも、過去という概念が希薄だったというほうが正確かもしれません。なにせ生まれて日の浅いわたしたちには、それまで過去というものがほとんど存在しなかったのだから。
たとえば隣の深月さん。
三人きょうだいの末妹で、お姉さんとはずっと仲良し。お兄さんとは幼稚園生のころにした喧嘩が今では笑い話。八つの頃に食べたケーキがお気に入りで、ご褒美の定番だったけれど、何年か前にお店がなくなってしまったのが残念で、未だにその味が恋しくなるそうです。
教室のみんなと話していると、それぞれ今まで過ごしてきた十二年分の人生があって、各々の経験がある。
わたしとラズにも、社会生活を送るにあたって経歴の設定は与えられているけれど、そこに思い出は、細かなディテールや実感はないのです。
わたしの知らない二十年間、瑠生さんは何を思い、どう生きてきたのだろう。
知っているのは断片的な情報のみです。瑠生さん自身も、あまり自分の昔話をすることはありません。
だけど、初めてその一端を語ってくれた日のことを、わたしは一生忘れない。
去年の四月末、わたしとラズが瑠生さんの家に転がり込んでから、はじめて霜北沢を離れて池梟(イケブクロ)に出かけた日。当時、胸に抱えていた秘密に押し潰されそうになったわたしは、瑠生さんの前で大泣きしてしまいました。
そんなわたしを瑠生さんは優しく抱きしめて、あたたかい言葉で包み込んでくれました。
瑠生さんと姉の鞠花さんとは義姉妹で、血が繋がっていないこと。
だけどその絆はほんもので、わたしとラズのことも、同じように家族だと思ってくれていること。
そして、何があっても決して見捨てないと……強く強く、励ましてくれて。
その深い優しさと真っ直ぐな瞳にわたしの心は高鳴り、射抜かれてしまったのです。
このとき、『AIの人格データを緋衣鞠花のクローン体に書き込んだ』わたしの心と身体は、まだ結びつきが完全ではありませんでした。――そのせいで、瑠生さんや鞠花さん、ラボスタッフのみなさんに多大な迷惑をかけてしまったのだけれど。
でも、だからこそはっきりと認識できる。
この想いはわたし自身のもの。
わたしは『この身体に眠っていた想い』ではなく、ヒトの精神を模してつくられたシステムの、わたし自身のこころで、お兄さまに恋をしている。
そばにいて、お話をして、それだけで胸の中が暖かさでいっぱいで、心が弾む。
……だけどときどき、どうしようもなく焦ってしまう。
もっと見てほしい。もっと構ってほしい。もっと強く深い繋がりを。
自分でもわからない、制御しきれない想いにかられてしまう。
瑠生さんは大人でわたしは子供。過ぎたわがままは困らせてしまうだけ。そんなことはわかっています。それでも抗いがたい衝動と欲求と……そしてやっぱり後悔と自責へ、思考はループしてしまいます。
「ほらクランちゃん、お昼たべよう?」
「あうぅ……」
かろうじて顔だけあげると、すでに自分のお弁当箱を用意した深月さんが、わたしの通学カバンからお弁当箱を取り出してくれていました。
深月さんは瑠生さんのお友達である天田水琴(アマダ・ミコト)さんの妹で、入学前からのお友達。彼女と同じクラスになれたことは、はじめての学校生活を送るわたしにとって大いに助けになっていて、足を向けて寝られない存在です。
「みっちゃん、クランちゃん、おつかれぇ」
「どしたのークラン? 今日ずっとぐったりしてるけど、保健室行く?」
さらにふたりの女子生徒がお弁当を手にやってきました。都宮来夢(ツミヤ・ラム)さんと黒鐘いつき(クロガネ・イツキ)さん、どちらもこのクラスでできたお友達です。
ちなみにラズはこの教室にはいません。双子というものは、学校のクラス分けにおいて基本的に引き離される運命にあるものだそうです。
「だいじょうぶです、おかまいなく……」
「重症だねぇ」
「妹ちゃんとなんかあったー? それとも愛しのお兄さま?」
「うぐっ」
「わかりやすいねぇ」
即座に見透かされてしまいます。
わたしの話の中にたびたび登場する瑠生さんは、この友達グループの中では周知の存在なのでした。
「ほらクランちゃん、たべなきゃ午後もたないよ」
深月さんがパステルピンクのお弁当箱を開け、だし巻きたまごをお箸でとって、動かないわたしの口にいれてくれます。
なめらかな舌触り、心地よい噛み応え、わたしたちの好みに合わせた適度な甘さが口の中に広がってゆく……おいしい。猫山さん特製のだし巻きたまごには甘いものも甘くないものもありますが、お弁当に入れてくれるのは甘いほう。午後も頑張るためのエネルギーだそうです。元気を出さないと……。
「深月、めっちゃクラン甘やかすじゃん」
「えっへへ。わたし末っ子だから、なんかこういうの新鮮で楽しくて」
深月さんによって、次はにんじんの煮物が口に投入されます。
……うう。双子とはいえ、わたしは一応お姉さんなのに。
こんな姿、お兄さまにはとても見せられません……。