1 / 緋衣瑠生
夕暮れ時の図書室、やわらかな風がカーテン靡かす窓際にふたり。
自分たち以外の人間は誰もいない。
茜色の光を受け、隣り合って伸びるふたつの影が、ひとつになろうとしている。
見つめあった瞳の中に自分がいる。
すでにその中に吸い込まれているかのような錯覚。
瞼が閉じられ、瞳の中の僕は閉じ込められる。
その整った顔が、唇が近付いてきて、かすかな吐息が僕の唇を撫でて――しかし。
「……ごめんなさい。やっぱムリです」
その人の肩を両手で強く押しのけ、僕は口づけから逃げだした。
◇
夢から現実に引き戻されるのは、いつだって一瞬の出来事だ。
「「朝だよ、お兄(さま/ちゃん)!!」」
左右からの声とともに、身体を包みあたためていた掛け布団が強制排除された。
「うぐぁっ……!」
明けて翌日午前七時、毎朝のルーティーン。
事前の打ち合わせのうえの行動なのか、同じシステムと同じ遺伝子が持つ何らかのつながりによって同時に起床しているのか。そのあたりは定かではないが、僕の左隣で寝ているクランと右隣で寝ているラズがぴったり同じ動きで上半身をベッドから起こすと、真ん中にいる僕からは必然的に掛け布団が剥ぎ取られる。
もう五月の半ばなので、シーズン的にこの仕打ちをくらっても急激な温度差に震えるようなことはないのだが、反射的に身体を縮こまらせてしまう。
「今日……講義ないんだってばぁ……」
「あ、そっか。お兄ちゃん今日は」
「お休みだって言ってましたね」
パジャマ姿の双子が顔を見合わせる。
そう。きょうは木曜日。もともと午前中の講義しか取っていなかったのだが、その午前中の講義が休講になったため、本日は実質休日となったのだ。
「そ……だからもう少し寝坊を」
「あ。寝ちゃう」
「じゃあ、ぼく先に行って猫山さん手伝ってくるね。クラン、起こしといて」
ラズは跳ねるようにベッドから出て、サイドテーブルに置いてあった眼鏡をかけると、玄関の方へ向かっていった。今日はお手伝いの猫山さんが、早朝から隣室の――といっても、そちらも僕たちの生活空間として貸与されている――二〇一号室に来てくれている日だ。
寝床に残されたクランが僕の肩を揺する。
「お兄さま。お休みだからって、寝てばかりいてはだめですよ」
「もうちょっと……もうちょっとだけ……」
「お兄さまってば」
「あと五分……」
「もう……仕方ないですね」
おお、理解が得られたらしい。テンプレの文句も言ってみるものだ。寝よう。
……それにしても、今になって「あの時」の夢を見るだなんて。
あれは高校二年の秋、とある先輩との間にあったこと。当時ほんのいっときだけ存在した交際関係が、終わりを迎えた瞬間の記憶だ。
あの先輩は今頃どうしているだろう。逃げだしてしまった後ろめたさがモヤモヤと胸中に蘇り、未だこの出来事が自分の心に強く引っかかっていることを思い知る。
まあ、それはさておき。今は抗いがたい欲求が身体を支配しつつある。
この誘惑に、あと五分だけ身を任せたい――。
「……お兄さま」
ふたたび閉じゆく重い瞼、狭まってゆく視界。
その中でクランもまた目を閉じた。
あどけなく愛らしい顔が、唇が近付いてきて、かすかな吐息が僕の唇を撫でて……さっきの夢の再放送かな?
胸の奥の何かが、かつてと同じ警鐘を鳴らす。
「その起こし方はやめなさいって言ってるでしょ!」
意識が一気に覚醒し、クランの肩を掴んで押し戻す。
あぶない。思わず力が入って、細くて軽い身体を突き飛ばしてしまうところだった。「あの時」先輩にしてしまったように。
「おはようございます、お兄さま」
キス魔(未遂)はそんな焦りを知る由もなく、太陽のような笑顔で無邪気に笑っている。
休日の朝、僕がなかなか起きずにうとうとしていると、クランが唇を狙ってくる――これは先月に一度経験したパターンのはずだ。眠いと脳の働きが鈍くていけない。
「……おはよ。あのねぇクラン」
「お兄さまがねぼすけだからですよ」
「それされると、そのうちホントにちゅーしちゃうかもしれないでしょ」
「それは……わたしは嬉しいですけど」
キス魔(未遂通算二回目)は目を逸らし、頬を染めている。
「そういうことは軽々しくしちゃだーめ。これも前に言ったでしょ」
「お兄さまにしかしません」
「お兄さまにでもだーめ」
キス魔(未遂通算二回目・再犯の可能性大)は染めた頬を不満げに膨らましている。
「……お兄さまは、クランのことがいやですか?」
「嫌とかじゃなくて、ふつう家族はちゅーしないの」
「小さい頃にお母さんがしてくれたって、学校のお友達も言ってました」
いや、僕はいちおう保護者だけど母親ではない。そもそもそれは小さい頃の話であって、クランはそんな子供じゃ――いや。彼女ら双子はまだ生後二年にも満たないのだった。とはいえよ。
「中学生とちゅーしたら僕がしょっぴかれちゃうから」
「女の子同士はノーカンだって、学校のお友達も言ってました」
確かによく言われる言説ではあるけれど。おのれ学校のお友達め。クランがこの起こし方をするようになった原因は、まさかそのお友達じゃなかろうか。
「僕はそう思わないの。断りなくしようとするのもNGです」
「お兄さま、クランとちゅーしてください!」
「言えばいいってもんでもないんだよ!」
「むー! お兄さまっ!」
膝の上に乗ったクランが、唇を尖らせて強硬手段に訴えようとしてくる。
僕はもうバッチリ起きているので、目的が完全にすり替わっている。
「ああもう、だめって言ってるでしょっ」
わからんやつだな!
双子の姉・クラン。普段は控えめでおとなしくて、聞き分けがいい子なのに……!
◇
「……って感じなんですけど、どうしましょう」
朝食に使った食器を洗い洗い、尋ねてはみるものの。
「それは……そうですねぇ……」
渡した食器を拭き拭き、猫山さんからはそんな返事が返ってくる。
すっかりむくれてしまった双子の姉と、そのおかげですっかり居心地悪そうになってしまった双子の妹は、朝食を平らげると早々にセーラー服に着替え、通学カバンを手に部屋を出ていった。
僕は思わず、聞いてくださいよとばかりにクランがむくれているわけについて話をしてしまったわけだけれど、まあ猫山さんだってそんなこと言われても困りますよね。
一年前、ヒトの身体を得てこの世に生まれ落ちたクランとラズは、知能や肉体年齢こそ十二歳相当であったが、情緒は幼く、生活能力もほぼほぼ皆無であった。そんな双子の生活をサポートすべく派遣されてきたスーパーお手伝いさんこそ、我らが猫山洋子(ネコヤマ・ヨウコ)さんだ。
今春、中学校に入るまでは双子が基本的に家にいたので、猫山さんはほぼ毎日、その身辺の世話や基礎教育などをしてくれていた。さらにはとても美味しいご飯を振る舞ってくれる、僕もお世話になりっぱなしの恩人である。双子の学校生活が軌道に乗ってからは訪問日数が減って週に三、四日となったが、彼女の存在は相変わらず心強い。
「クランちゃんは特に、瑠生さまへの気持ちが強いようですしね」
「それだけなら、まあいいんですけど……あんまりこう、家庭内で不健全な感じになっちゃうのはちょっと」
クランはご機嫌斜めになってしまったが、ああしてきちんとせき止めないと無邪気にエスカレートしていきそうな予感がどうにも拭えない。放置すればラズが加わってくる危険性すらある。
世の中ただれた生活を送っている大学生というのはいるだろうけれど、十二、三歳(相当の生後一、二年)の女の子とちゅっちゅしまくるようなやつはぶっちぎりでやばいと思う。
これが単純に甘えんぼうな子供としての行動ならまだ良いのだが、おそらくそれだけではない。なにしろ去年発生したとある事件によって、彼女たちの身体に眠っていた思春期の感情の源泉に、僕は間近で触れて、知ってしまっているからだ。
そして双子たち自身も、僕がそれを知っていることを知っている。
知ってはいるが、あの一件以来、それをはっきりと口に出したことはない。
クランも、ラズも。そして僕もだ。
猫山さんも言うとおり、クランは特にその想いを強く持っているような振る舞いを見せるのだが――それをどう受け止めるべきなのか、今のところ答えは出ていない。
「クランちゃんとラズちゃんの健全育成も、私の務めです。そういった節度を持つよう、私からもあらためて二人に伝えましょう」
「ありがとうございます。ただこれ、僕の方にもちょっと問題があって」
「と、おっしゃいますと?」
「反射的に強く押しのけちゃうんです。その……自分でもよくわかってないんですけど」
高校時代に先輩と。今朝はクランと。
咄嗟の行動に伴っていた感情に、最も近いのは。
「怖い……のかもしれません。高校の頃それでちょっとあって……今朝もクランのこと突き飛ばしそうになっちゃって。それでケガさせたり、怯えさせちゃったりしても嫌ですし」
今のところセーブできているけれど、なにぶん寝ぼけているときの行動だ。今後も続くとそのうち本当に突き飛ばしてしまうかもしれない。
……ただ、本当に自分でもわからない。
同意なきその行為に拒否反応を示すこと自体は、さほどおかしくはない。
だけど高校のときは、直前まで受け入れるつもりであったはずだ。
今朝にしたってその行動の是非はともかくとして、クラン自体は僕にとって、とてもかわいくて大切で、人付き合いを得意としない自分が自分で驚くくらい、心を預けている相手だ。
なのに理性ではなく、本能に近いところで――僕はいったい、何に怯えているというのだろう。
洗い物を終え、そんな思いを巡らせていると、キッチンのすぐ左後ろにある玄関のドアノブがガチャリと回る音をたてた。
「えと、た、ただいま……」
「あら、ラズちゃん」
声をあげたのは猫山さんだ。
見れば、先ほど学校へ向かったはずの双子の妹が戻ってきている。
「どうしたのラズ、忘れ物?」
「あっ、うん。ペンケース。ゆうべ出しっぱなしだったの」
シューズを脱ぎ捨て、双子の妹はデスクのある部屋にパタパタと向かっていったかと思うと、ライトグリーンのペンケースを手にパタパタと戻ってきた。
ただ、その言葉や仕草はどことなくぎこちない。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい、気をつけて」
「あんま急いで、転んだりしないようにねー」
履き直したシューズの爪先トントン、白いポニーテールを揺らして騒がしく出ていく双子の妹を再び見送る。
猫山さんとの会話、聞こえてしまっていただろうか。……今の挙動不審さを見るに、聞こえていただろうな。ラズは一見、無邪気で奔放だが、それでいて姉のクラン以上に調和を重んじる心の強い子だ。変に気を回したりしなければいいけれど。
「先程の件ですが……事情は承知しましたので、私からもそれとなく伝えましょうか」
猫山さんは僕の言い分に深く突っ込むことなく、そう言ってくれた。
「ああいや、こっちの話については、たぶん自分でちゃんとしなきゃダメだと思うんで……ありがとうございます」
とにもかくにも。同居開始から一年を経て、クランとラズの入学という節目を経た今。僕はさらなる成長のさなかにある双子ちゃんとどう接していくべきなのかを目下悩んでおり、今朝の出来事もその構成要素のひとつなのだった。
親子のようであり、きょうだいのようであり、そのどちらでもなく。
友人同士でありつつも、それだけではない想いを抱きながら。
僕と双子はとても曖昧な「家族」として、この一年間を一緒に生きてきた。
彼女たちはまだ生まれて一年。AIシステムとしてコンピュータの中にいた期間を含めても、二年も経っていない。多くの人が当たり前に経験する時間をまるごとスキップして、いきなり十二歳から人生がスタートしたようなものだ。
幼少期に学ぶべきこと、経験すべきこと、そして家族との触れ合い……クランとラズを託された身として、二人がまだまだ必要としているはずのそういったものを、できる限り与えて、補って、支えてあげたい。寂しい想いをしないように側にいたい。
そんな気持ちで僕はこの一年間を過ごしてきたし、それは今でも変わらない。
――その一方で。
これから先もっと広い世界を知り、経験し、成長してゆくであろう彼女たちの世界の中心が、いつまでも僕であるべきではない――そう考えている自分もいるのだ。