20_day15 Salvia

 ラボの休憩スペースに行くと、鞠花がベンチに座っていた。

「もう眠ったかい?」
「うん。ぐっすり」

 日付が変わった頃、クランとラズはラボ内の仮眠室で眠りについた。
 僕たちは明朝、もう一度クランに検査を受けさせてから帰ることになっている。

「瑠生も疲れたろ? 寝ないでいいのかい」
「めっちゃ疲れた。少し居眠りしちゃったんだけど、そのせいか目が覚めちゃって。そこいい?」
「もちろん」

 鞠花の隣に腰を下ろす。
 二階のフロアの端に位置するこの場所は、一面のガラス張りから外が見えるようになっていて、僅かに瞬く星と月、そして遠くの街明かりが見える。
 日中であれば丘の緑が映えることだろう。

「二人のしてる眼鏡、脳波とか脈拍とか、なんかいろいろ体調わかるようになってるんだってね」
「ヒトのクローン技術がある程度一般化したとはいえ、クランとラズは極めてレアなケースだ。何か異常が出ればすぐ駆けつけられるように、用心だよ」
「猫山さんも、熊谷さんも……ラボの人達も。みんなで守ってくれてたんだね、二人のこと」
「ろくでもないいざこざに巻き込んだ以上、多少のアフターケアくらいはね」
「姉さんだって巻き込まれたようなもんでしょ。……まだ色々信じられないや」

 楽しくて何気ない、少しの遠出のはずが――怒涛の休日であった。
 一気に非日常の世界に引きずり込まれた心持ちである。

「ていうかその格好、また仕事してたの? 姉さんこそ寝なよ」

 鞠花は先ほどまで着ていなかったはずの、研究者のトレードマークこと白衣を羽織っている。

「あんなことがあったばかりだからね。さっさと纏めておきたいこともある」

 ――その胸ポケットには、数本のペンと一緒に見覚えのあるものが刺さっていた。

「それ、そこにつけてたんだ」
「……うん」

 花飾りがついた金色のヘアピン。
 いつかあの場所で鞠花が失くし、僕が探し当てた、子供の頃のお気に入り――先程、その存在を思い出したものだ。十二年以上前からあるもののはずだが、錆も剥がれもなくピカピカで、長く大切にされていることが伺えた。
 胸元のそれに目をやったのち、鞠花はそっぽを向いて黙ってしまったが、やがてぽつりと語り始めた。

「クランとラズを退避させるために、もっとも手っ取り早く用意できて、もっとも管理しやすいのが、私自身のクローンだったんだ」

 技術そのものが確立されていても、生命の――まして人間の複製という行為は、当然ながら誰でも好き放題に行って良いものではなく、手続きや制約が存在する。
 地下で見た『ストーク・ポッド』の調達を含め、裏にはさまざまな議論や見えない戦いがあったはずだ。
 そのうえ、もともと肉体に備わっていた『人格の基』の上に別の人格を書き込むのだ。クランとラズは穏便に共存、融合を果たせたとはいえ……人道的な解釈は分かれるだろう。
 鞠花は諸々の責任を被る意味を込めて、自分自身を使ったに違いない。

「使うのは僅かな細胞だけだ。当然、脳細胞でもない。だがそれでも……クローンにはまれに、基になった人間の記憶や感情の残滓が宿ることがあるという」
「臓器移植で、もとの臓器の持ち主の記憶とか性格が移るみたいな話? ……あれオカルトだって聞いたけど」
「私も眉唾だったさ。単に気質が元の人間に似るようなものだと思っていたが」

 しかし、クランの精神世界の最奥で見たものは……シチュエーションこそ被るところがあったが、紛れもなく鞠花と僕の記憶――クランには知り得なかったはずの情報だった。

「きみが……というか、私たちが見たのは、ちょうどクランとラズの肉体年齢と同じ、十二歳頃の私の気持ちだろう。……その。あのときは、だな」

 鞠花の声のボリュームが落ち、いつもハキハキとした語り口が、急にごにょごにょとし始めた。

「あのときは本当に瑠生のことがかわいくて仕方なくて、その……これを一生懸命探して、見つけてくれたのも、凄く嬉しくて。というか……今はその、瑠生のことは、家族として。大事に思ってるから。そこは安心してくれ、私はもう大人なので」

 言いながら、姉の顔はみるみるうちに真っ赤になっていく。

「私のあのときの気持ちを……ああやって、優しく受け止めてくれて……ありがとう」

 とうとう、ベンチの上で三角座りになって、膝に顔をうずめてしまった。

「……キモかったらごめん」
「ううん、全然。理屈抜きで自分が愛されてるって、嬉しいな」

 こちらに背を向ける姉に、膝送りで距離を詰める。

「僕も姉さんに伝えてなかったことあって……聞いてもらってもいい?」

 鞠花はうずくまったまま「うん」と小さく頷いた。

「姉さんも……父さんも母さんもさ、みんな僕に優しいよね」
「……親が子を大切に思うのに、大きな理由なんてない」
「だよね」

 そう。きっとただそれだけのことなのだ。

「……今の家に引き取られてすぐのときは、そんなでもなかったんだけどさ……いつからだろう、大きくなるにつれて、よくわかんなくなってきちゃったんだよね。父さんも母さんも、姉さんも。なんで自分なんかにこんなに良くしてくれるんだろって」

 たまに会えば「かわいいね」と言ってくれた親戚も、「賢いね」と褒めてくれた両親の友人知人も、親を亡くした僕を助けてはくれなかった。
 ――いくらか成長して、そのことを再認識したとき、途端に自分の立っている足場が揺らぐような思いをしたのを覚えている。

「でも、そうやって大事にしてくれてる手前、そんなこと思っちゃだめだよねとか思ったりして、どうしていいかわかんなくって……あんま自分から喋んなくなったりして」
「瑠生、きみは――」
「それでもずっとみんな優しくてさ。わかってたんだよ、本当に大事にしてくれてるの。……だけどずっと一人でモヤモヤして……たぶん、怖かった。みんな優しいのはわかっても、優しくされてる自分の価値がよくわかんなかったんだ」
「……ごめん。私は自分のことばっかりで……気付いてあげられなかった」
「ううん。僕自身でも、割と最近までよくわかってなかったから。……きっと素直に思ったこと喋って、甘えられればよかったんだろうね」

 姉の背に少しだけ寄りかかり、身体を預ける。

「昔と今は違うのかもしれないけど、ただ好きだから好きって気持ちは、本当に嬉しいんだ。……僕の姉さんに対する気持ちは、家族としての情だと思うんだけど……」
「だ、だからそこはもう……それでいいって言ってるだろう」

 鞠花の腕が伸びてきて、ぺちぺちと叩かれてしまった。

「クランとラズがうちに来てさ。僕とあの二人は境遇違うかもしれないし、僕が二人の親をやれるとは思ってないけど。理屈じゃなくて、なにかしてあげたいっていう……そういう気持ちも、今は少しわかる」

 星の散りばめられた夜天を見上げながら、双子の穏やかな寝顔を思い出す。

「こうやって素直に人の気持ちを受け取ったり、話したりできるようになったのも――そうしようって思えたのも、クランとラズのおかげ」

 あの子たちは、本当に裏表なく僕を慕ってくれる。
 その想いを真正面から受け止めて、真正面から返したい――飾らないストレートな二人の好意は、僕にそう思わせてくれた。

「二人を僕に預けてくれてありがとう、姉さん」
「……そうか。やっぱりきみに託してよかった」

 膝を抱くのをやめた鞠花もまた、窓の外を見上げる。

「僕がギルドのアレで凹んでるの知ってて、新しい仲間作ってあげようとか考えてたでしょ」
「なんだ。そんなこともお見通しか」
「公私混同。余計なお世話。……でも、ありがと」

 お節介焼きの姉もまた、僕の肩に寄りかかってきた。

「今度、一緒に実家に顔出しにでも行くかい?」
「うん。いいね」

 僕たちは、しばらくそうして月と星を眺めていた。