1
最初に見たのは、無音で真っ暗な視界の真ん中に、白い穴が浮かんでいるような映像だった。
やがて周囲のところどころにも小さな白い点が浮かんできて、星々の散りばめられた夜空か、宇宙のようなイメージへ。
――そして。
「お兄ちゃん、こっち!」
頭を強く引っ張られるような感覚とともに、真ん中の穴に吸い寄せられていく――。
見渡す限り真っ白になった視界で、馴染み深い声がする。
「どう? ラズのこと見える?」
声のする方に視線を向けると、右隣にラズがいた。
立っているのか浮かんでいるのかわからないが、同じ空間にいる。
「うん、見えるよ。……あれ? その格好」
今日着ていたおでかけ着とは違う、ずいぶん派手な衣装だ。
この「装備」には見覚えがある。緑の服に革鎧とブーツ、赤いマフラー、そして腰に提げた二振りの短剣。FXOの中で、彼女が愛用していた装備品だった。
「ラズの中のイメージだよ。クランを絶対に助けるぞーって思ったら、これになった」
譲れない戦いに赴くための勝負服――必ず成し遂げる決意の現れということだろう。
「お兄ちゃんも」
「えっ」
まさかと思い視線を下げ、両腕を持ち上げて自分の姿を確認する。
――案の定、白銀のプレートメイルが全身を覆っていた。
僕の、もとい『ルージ』の装備だ。背後をチラ見すると、背負った大盾とメイスもしっかり再現されている。
「僕の姿も、ラズのイメージに大いに引っ張られてるってこと……」
あくまでイメージだからだろう、ゲーム中の『ルージ』よりだいぶ華奢なリアルの身体にピッタリの寸法なうえ、とんでもない重装備なのに重さはまったく感じない。
……これ、別に当時実装されてた最上級装備とかではなかったと思うんだけど、こんなにキラキラして強そうだったっけ? 脳内イメージ、恐るべし。
「行こう、お兄ちゃん!」
悠長に構えている暇はない。僕はラズに導かれ、白い空間を進み始めた。
2
双子と一緒に駆け抜けた、FXOのフィールド。
彼女たちが観たであろう、映画やアニメのワンシーン。
僕たちが住まうマンションのある住宅街。
霜北沢の駅前商店街。
チェスの盤面。
水族館の大水槽。
覚えのあるものも、ないものも。
さまざまな風景が僕たちの周りを、前へ後ろへ、右へ左へと流れてゆく。
――これはおそらく、クランの記憶なのだろう。
ラズの脳とリンクし、HMDを通じ、視聴覚的なイメージに変換されて流れ込んでくるのだ。
無数のイメージの中を、ラズはすいすいと泳ぐように進んでいく。
特にそう意識しているわけではないが、僕の身体は勝手に彼女を追従していた。
「行き先、本当にわかっちゃうんだね」
「うん。ラズの中にとけた『もうひとり』と同じ感じがする方へ進んでいけば、クランの中の『もうひとり』のところにたどり着けるはず」
自宅のベッド。
衣装ケースとメイド服。
ハートのジャック。
どんどん進んでゆく。
「ラズはね、自分の中に『もうひとり』がいるって気付いたとき……自分と少し違うけど、同じ想いを持ってるんだなって、嬉しかったんだ。だからうまくとけあえたのかもしれない」
キッチン・ロブスタ。
マイカップを買った雑貨店。
サンシャインシティのゲームセンター。
さらに奥へ。
「でも、クランは違ったのかも。自分の中に他の誰かを感じるのが、こわかったのかな」
なるほど。ラズと比べてクランは気が小さく、人に対して臆病な傾向がある。――それが、融合が遅れた理由かもしれない。
「僕も結構人見知りで、人付き合いは苦手なほうだから、気持ちはわかるかも。……でも、偉いな。『くっつきかけ』になってるってことは、ちゃんと『もうひとり』を自分の一部として受け入れるよう、頑張ってるってことでしょ」
もし僕が、自分の中に知らない何者かを感じたら……果たして彼女たちと同じように、歩み寄ることができるだろうか。
「クランのこと、あとでたくさん褒めてあげないとね」
そう言うと、ラズがはっとした顔をして振り返った。訴えたいことはもう、言わずともわかる。
「ラズのこともね。間違いなく今日のMVPなんだから、帰ったらいっぱい褒めなきゃ」
「えっへへ。やった」
泳ぐように、飛ぶように。ラズは楽しげに弾む軌道を描いた。
「……ねえ、ラズ。一応聞いときたいんだけど……『もうひとり』がクランとひとつになるってことは、消えてなくなっちゃうわけじゃないんだよね」
「うん。ラズの中にいた『もうひとり』は、ちゃんとラズの中に生きてる」
その答えに安心する。
クランのためであったとしても、そのために、この二週間をともにしたはずの『もうひとり』を蔑ろにしたくはなかった。
「お兄ちゃんがそうやって心配してくれるのが、すっごく嬉しい。この気持ちが何よりの証拠。だから安心して」
言いながら、ラズは僕の周りをくるくると旋回する。
「……嬉しくて、余計なことまで言っちゃいそう」
「余計なこと?」
「ううん。抜け駆けはよくないもん。……そろそろ近いよ、お兄ちゃん」
――気を引き締める。正念場だ。
3
一瞬の暗転。
気がつくと、僕は見覚えのある風景の中に立っていた。
彼女の涙を受け止め、最後に言葉を交わした場所――サンシャインシティ、黄昏時のスペイン階段。
クランが、あのベンチに座っていた。
「クラン!」
自分の肩を抱いて俯いた、小さな姿に駆け寄る。
僕もラズも、いつの間にかもと着ていた服装に戻っていた。
おそらく、今度はクランの持つイメージが僕たちのビジョンに強く現れているのだろう。
ここは間違いなく、クランの精神世界の中心なのだ。
「お兄さま、ラズ――!」
クランが面を上げる。
その表情は驚きと戸惑いが見え――そして彼女の胸の中心に、何か赤く光るものがある。
「見つけた! ここだよ!」
ラズがクランに飛びつき、両手の指を絡ませてしっかりと握る。
「ラズ、どうして――」
「助けに来たの。クランのことも、『もうひとり』のことも!」
二人の身体は重力を無視して浮かび上がり、こつん、と額をぶつけ合う。
クランの胸の赤い輝きが大きく広がって、広がって、視界を包む。
すべてが光に飲み込まれる直前、双子と視線がぶつかった。
「ありがとう、ラズ、お兄さま――!」
「あとはお願い、お兄ちゃん――!」
4
ふたたびの暗転。
気がつくと、僕は見覚えのある風景の中に立っていた。
そこはやはりサンシャインシティのスペイン階段であった――が、一瞬前にいたそことは、少し様子が異なる。空の色は夏の鮮やかな青で、暑さに大気が揺らめいている。花壇に植わっている花も違う気がして、それ以外のディテールも、どこが、と咄嗟に答えることができないような、間違い探しのような違和感を伴っていた。
クランが、あのベンチの前に立っていた。
しかしその輪郭はどこかぼやけていて、こちらを見ているはずなのに、どんな顔をしているのかよく見えない。そして、先程見たクランの胸にあったのと同じ輝き――淡く赤い光が全身を包んでいる。
目の前にいるのが、クランの中の『もうひとり』であることを、僕は直感した。
――瑠生。
『もうひとり』が聞こえる。
耳に聞こえる言語としてではない。
頭の中に感情そのものが流れ込んでくるようだ。
――瑠生。ワタシを、消しに来たの?
「……ちがうよ」
――ワタシが、クランをくるしめてるのに?
「僕はいなくなって欲しくないよ。クランにも、きみにも」
一歩、歩み寄る。
――ワタシは、クランの中からずっと瑠生を見てたの。
「うん」
――羨ましかった。
――瑠生にまっすぐ想いをぶつけられるのが。
――瑠生の愛情をめいっぱい受けられるのが。
「ずっと、クランと一緒に僕のそばにいたんだね」
――クランとひとつになって瑠生と一緒にいられるなら、それでいいの。
――でも、クランにかけられた言葉で、あの高鳴りを感じて。
――どうしても、クランじゃなくて『ワタシ』を見てほしいと思ってしまった。
彼女は、一個の人格として成立する以前の何か。
思考を伴わない、もっとプリミティブな衝動。
それはきっと、彼女自身に制御できるものではない。
彼女もまた、一歩こちらに近付いてくる。
――ずっとずっと、あなたのことが大好きだったんだよ、瑠生。
懐かしいその気配に、僕は覚えがあった。
そうか。『ここ』は、クランではなく――彼女の。そして僕の記憶。
同じ素体から生まれたクローンであるという、クランとラズの『人間としての身体』。
そのベースになったのは――。
それを認識したとき、おぼろげだった彼女の輪郭ははっきりと像を結んでいた。
『もうひとり』の姿は、クランとラズによく似た、長い黒髪の少女。
そして僕は、小柄なはずの彼女を見上げている。
覚えている。一緒にここを訪れたのは、僕が今の家に引き取られて四年目。
彼女の瞳に映る僕は、八歳の頃の姿をしていた。
「ありがとう。僕のこと、こんなにも大切に思ってくれてるんだね」
僕の手の中には、花飾りがついた金色のヘアピンが握られていた。
ああ、そうだった。
あのとき、あなたはこれをなくして泣いていたっけ。
――瑠生は、本当にやさしいね。
――ワガママ言って、駄々こねて、ごめんね。
「ううん。会いにきてよかった。話せてよかった」
僕は彼女の左耳の上に、その髪飾りをそっと差し込んだ。
十二年前にこの場所でそうしたのと同じように。
――こんなところまで来てくれて、ありがとう。
――クランをよろしくね。
「もちろん。これからも、ずっと一緒だよ」
たったそれだけの短いやりとり。
けれど彼女の姿は、もうどこにもなくて。
空の色は春の夕暮れに戻っていた。
5
――さま。お兄さま――
――お兄ちゃん、返事を――
なんだか騒がしい。遠いような近いような。聞き慣れた、馴染み深い声がする。
「「お兄(さま/ちゃん)っ!」」
朦朧としていた意識が徐々にはっきりしてくる。
目を開けると、そこは真っ暗闇で――あ、HMD被ってたんだった。
身体を起こし、固定バンドのマジックテープを剥がして、重たい装置から頭を解放する。
――左右ふたつのストーク・ポッド。その中に座るクランとラズの姿があった。
「……ああ、きみたち、起きたの……」
背中が痛い。敷くもののひとつでも借りるべきだったか。
なんだか不思議な夢を見ていた気がする。――いや。
夢じゃない。
クランが目を開けて……起き上がってる!
「クラン、大丈夫? 痛くない?」
「はい。……はい! お兄さまとラズのおかげで、たった今目が覚めました。クランは元気です!」
顔色からしてまだ本調子ではなさそうだが、その言葉もまた、強がりではなさそうだった。
「良かった……ラズ、本当にありがとうね」
「うんっ!」
ラズにも元気いっぱいの笑顔が戻ってきた。
彼女の導きがなければ、クランが再び目覚めることはなかっただろう。
「「お兄(さま/ちゃん)、ありがとう!!」」
双子が僕の胸に飛び込んできた。同時に周囲から、研究スタッフたちの歓声と拍手があがる。
抱きとめる腕の中に、あたたかさを感じる。生きている。
――本当に良かった。ここにいる全員の力で、クランを助けることができたのだ。
「瑠生さばっ、ラズちゃ、ありがとうございばず、私、私はぁっ」
猫山さんは先ほどにも増しての大号泣だった。せっかくの美人がぐちゃぐちゃだ。
「あ、あのっ。猫山さん。クランはこのとおり、お兄さまと、ラズと――みんなのおかげで、元気ですっ。ご心配おかけしました」
「うん、いいどっ、いいんでずっ、わだし、クランちゃんが、元気になっでぐれだらぁっ」
「猫山、落ち着け。ほら」
見かねた熊谷さんが寄ってきて、ハンカチを差し出す。
「瑠生さま、ラズさま。私もお二人であれば必ずやり遂げてくださると確信していました」
口調こそいつもと変わらない穏やかさだったが、熊谷さんも滝のような涙を流していた。
「え、ええ。熊谷さんがここまで飛ばしてくれたおかげです」
口数も少なく、サングラスで表情も読みづらいが、この人も結構情に厚いタイプのようだ。
「やあ。瑠生、ラズ。……それから、クラン」
目を左右に泳がせながら、鞠花がやってきた。
「その……おかえり。クランにおいては、ええと。無事で何よりだ。念のためあとでもう一度検査を――」
――そうか。クランの中で僕が見聞きしたことや『もうひとり』とのやりとりは、すべてこちらでモニタされていたのだ。
真っ赤になった顔と、らしからぬ挙動不審さ……いつもと違う姉の姿がなんだかかわいらしくて、思わず吹き出してしまった。
「なな、何を笑って……!」
「ううん。ただいま姉さん。ちゃんと連れて帰ってきたよ」
自分で口にして、改めて喜びが込み上げてくる。
「ラズと姉さんから事情聞いたよ、クラン。よく頑張ったね。本当に助かってよかった」
双子の姉の頬をそっと撫で。
「クランが助かって、ここにいるみんなが笑ってるのはラズのおかげだよ。すっごく偉かった」
双子の妹の頭を、思い切りくしゃくしゃと撫で。
そして二人を、思い切り抱きしめる。
「うぇぇぇ、お、お兄ちゃん?」
「お兄さま、くるしいです……!」
「あっ、ごめんごめん。……それから、二人とも大変だったね。いきなり人間になったり、そのままうち来たり」
「ううん。怖かったこともあったけど、この身体になってよかった」
「はい。今こうしてもらえているだけで……おつりがきちゃいます」
力の入りすぎた腕を緩め、懐かしく愛らしい二人の笑顔を見つめる。
生きてる。生きてここにいる。
嬉しくて、いとおしくてたまらない。
「……随分遅くなっちゃったけど、この世界にようこそ」
――紆余曲折はあったけれど。
「ありがとう、生まれてきてくれて」
二人が生まれたこの場所で、この祝福をできることを、僕はとても嬉しく思った。