1
鞠花の所属するという「ラボ」――心都大学情報科学研究所は、市街地からやや離れた小高い丘の上にあった。
地上三階ほどの大きな施設で、学校の校舎を想起させる佇まいである。
地図アプリを確認すると、現在地はS県を示していた。
「クランちゃん……!」
施設の入口から、僕たちの乗ってきたミニバンに駆け寄ってきたのは猫山さんだ。
彼女は青い顔をしながらも、抱えていた担架を素早く広げる。
僕は猫山さんと一緒にクランを施設内に運び込むことになった。
研究所の内部は壁面も床も全体的に白く、病院のような印象を受けるが、薬品臭はない。
鞠花の先導で案内されたのはエレベーターで地下に潜り、複数のセキュリティゲートをくぐった先にある一室であった。さまざまなコンピュータ機材やモニタ類が所狭しと設置されていて、無数のケーブルが床を這っている。
室内に控えていた何名かのスタッフは皆、写真で見たことのある鞠花と同じ白衣を着ていた。
「そこにクランを寝かせてやってくれ」
鞠花が示したのは、部屋の中央に置かれた長方形の白い箱であった。
大人の腰ほどの高さがある円形の台座の上に二つ並んで載っていて、大きさは縦二メートルほどあり、部屋の奥に見えるスパコン的な巨大な機械と何本ものケーブルで繋がっていた。
箱の中には真っ白いシリコンのような樹脂で形作られたマットレスのようなものが敷かれ、奥側が枕のように盛り上がっている。
向かって右側の箱の中にクランをそっと横たえると、ひとりのスタッフがクランの眼鏡を外し、箱の内壁に備わっていた蓋を開け、取り出したものを彼女の頭に巻き付けてゆく。
――いくつもの電極を備えたヘッドギアだ。固定が終わると、箱の内壁からクランの頭に無数のケーブルが伸びた格好になる。
ゆりかごのようにも、棺桶のようにも見えるその装置を見て理解する。
クランは、ここで『人間としてのクラン』に生まれ変わったのだ。
2
十五分ほどが経過した。
クランを収めた白い箱は『ストーク・ポッド』と呼ばれていた。
本来の用途はクローン体の培養であり、もともとこのラボの持ち物ではなく、提携関係にある別施設からもたらされたものらしい。かつてクランとラズの本体であったシステムをこれに接続することで、人格の書き込みは成されたのだという。
ヒトのクローン技術が実用に耐えうるものとなり、法改正が進んでいる――そんなニュースを見たのは何年前だったか。
こういった機器を目にするのも、その存在を知ったのさえ、今日が初めてだった。
ストーク・ポッドの台座を囲んでいるのは四名の研究スタッフと鞠花、そして僕である。
ラズは空いていた方のポッドに入って、ヘッドギアを装着している。クランを診断するにあたって、彼女の脳の状態も調べたためだ。
「案の定ですね。各種計測値が示す値や、ラズの脳との比較データも、おおむねラズと鞠花さんの仮説どおり……人格同士の競合に似ていますが、違う事象が起きていることを裏付けます」
手元のタブレット端末を操作しながら、「山畑(ヤマバタ)」というネームタグを下げた男性スタッフはそう報告した。
「『似ているけど違う事象』っていうのは、どういうことなんですか」
僕の問いに、山畑さんが続けた。
「クランの中の『もうひとり』。仮にクランBと呼びますが……まず、クランBは独立した人格として成立しているわけではありません。しかし『何らかの強い衝動』を持っています。そして、クランBはクランの主人格と融合の途中段階、言うなれば『くっつきかけ』の状態にあります」
つまり、ラズが語っていたところの「自分の中に『もうひとり』がとけて、ひとつになってくる」最中ということだろう。
「その『くっつきかけ』――既にクランの一部でありながら別個の意思を持つに至ったクランBが、『何らかの強い衝動』をきっかけとして自分自身を攻撃し、脳に過負荷をかけているというのが、彼女の現状です。乱暴に例えるなら、自分の腕が自分とは別の意思で動いて、自分の首を絞めているようなイメージをしてもらえれば」
その言葉を聞いて愕然とする。自分の一部が、自分自身を蝕んでいるだなんて。
「その一方で、クランB自身は既に主人格であるクランの一部であり、今やクランなしでは存在が危ぶまれます。ラズが言うようにクランBが身体の主導権を奪おうとしているのだとしても、それによって主人格を破壊してしまえば、結局は共倒れになる可能性が高い」
それはつまり――クランも『もうひとり』すらも残らない、人格の死。
「なるほど。仮にクランBが一個の人格として成り立っていたなら、症状は人格のスイッチという形で現れるほうが自然か」
「処置は?」
「ストークの機能でクランBだけを除去か、上書きできるか?」
「既に融合が進んでいる状態ですから、難しいと思います。うまくいったとしても、主人格に影響が――」
スタッフたちの議論の中、僕は何も言うことができなかった。
……頭の中が真っ白になりそうだ。
クランの手を握る。
鎮静剤を投与されて落ち着いているが、人工呼吸器のマスクの下の表情は弱々しく、肌は青白い。……つめたい。
このままでは、この子は。
――どうして、こんなことになってしまったんだろう。
「クランの様子がおかしくなったとき、一番近くにいたのは僕だ」
こうなったきっかけって、なんだ。
「僕のせいなのか」
僕たちはもう家族だって、伝えたかっただけなのに。
「僕が、なにかしてしまったのか……?」
きみを嫌いになることなんかないって、安心して欲しかったはずなのに、どうして。
「僕が、クランをこんなふうに……」
二人の親代わりにはなれなくたって。
父さんが、母さんが、鞠花が僕にしてくれたようにはできなくたって。
寂しい思いをさせないように、寄り添って生きていくことはできる。
そんな考えは僕の思い上がりに過ぎなかったのか。
僕なんかが誰かを「家族」にするだなんて。やっぱりそんなこと――
「違うよ、お兄ちゃん」
いつの間にか滲んでいた視界の中心。
クランをの手を握った僕の手の上に、ラズの手のひらがそっと触れる。彼女はストーク・ポッドから降り、僕の隣にやってきていた。
「クランは絶対嬉しかった。そのとき一番欲しい言葉を、お兄ちゃんにもらったんだよ」
そのまま、小さな両手が僕の手を包む。僕が彼女らの不安を拭うため、そうしたように。
「ラズ、今の話を聞いてわかった気がする。……ラズもクランも、元になった身体は同じ。同じ素体のクローンなの。だから、ラズとクランの中にいる『もうひとり』は同じもの。ラズとクランより、もっとそっくりな瓜二つ」
意を決したように、ラズは言う。
「あのね。……『もうひとり』はね、『緋衣瑠生』のことが大好きなの」
「……僕が?」
「『もうひとり』の気持ちは、ラズたちが持っていたお兄ちゃんへの気持ちよりも、もっと激しい気持ち。もう、ラズの中には『もうひとり』がとけているから――その気持ちがわかる」
クランとラズはともかく、なぜ、僕と関わりや面識などなかったはずの『もうひとり』が、僕に好意を持つというのだろう。
しかし他ならぬクランの片割れ――ラズが認識している以上、それは何より確かな感覚のはずだ。
「それが、『もうひとり』が持っている『強い衝動』なの?」
「うん。……ごめんね。さっき、お兄ちゃんとクランのこと見てたんだ。『もうひとり』はクランが羨ましかったんだと思う。ラズだって、してほしいって思っちゃったから」
ラズは頬をかすかに染め、ばつが悪そうに苦笑した。
……やけに買い出しの戻りが遅いとは思っていたが、あのときラズと鞠花も近くにいたらしい。
「だからお兄ちゃん。クランの中の『もうひとり』にも、同じように声をかけてあげて。クランも『もうひとり』も……どっちもクランなんだもん。お兄ちゃんは同じように、大切にしてくれるって。そうすれば、きっと『もうひとり』も安心するはず」
「今のラズみたいに、無事にクランとひとつになれるかもしれない……?」
ラズが頷くと同時に、いつからか彼女の話に聞き入っていたスタッフたちが顔を見合わせる。
「説得か……試してみる価値、ありそうですね」
「実現できれば、最も安全かつ効果的な解決方法かと」
「しかし今の状態で、確実に『もうひとり』に声を届けるには……」
「瑠生さんの言葉を信号として脳内の特定部位に送ること自体は可能ですが、その部位の特定が必要ですね。どこからがクランでどこからが『もうひとり』なのか、判然としません」
「ラズが力になれると思う」
思案する面々に、ラズが名乗りをあげた。
「ストークでクランと繋いでくれたら、ラズがお兄ちゃんの声を届ける橋渡しになれる」
「なるほど、いけるかもしれない」
「やりましょう、鞠花さん。いま打てる最善策と考えます」
鞠花はひとり黙って何事か考え込んでいた様子だったが、すぐに頷いた。
「――ああ。そうだね、すぐに準備を始めよう」
3
モニタを見ながらなにごとか確認したり、キーボードを叩いたり、機器の接続を行ったり――スタッフたちがクランの回復に向けて準備を進めていた。
各々の真剣な表情からは一様の思いが感じ取れ、そしてそれは僕も同じだった。
絶対に、クランを助ける。
「外からは私たちが状況をモニタして、必要に応じてサポートする。きみにはこれを」
鞠花から手渡されたのは、いかついゴーグルのような装置――確かVRゲームとかに使う、ヘッドホン付きのヘッドマウント・ディスプレイだった。
ただ僕が見たことのあるそれと違って、頭に装置を固定するバンドは顎までカバーするようになっている。バンドの内側にいくつも電極がついており、そこから何本ものケーブルが伸び、ふたつのストーク・ポッドと同じく、巨大なコンピュータ装置に接続されていた。
「それ自体に映る映像は、イメージを補助するものにすぎない。だが電極からきみの脳に行く信号によって、これからアクセスするクランの脳内を映像や音声として認識できるはずだ」
「これを被って呼びかければ、クランの中の『もうひとり』に届くんだね」
「ああ。目的地まではラズが連れて行ってくれる」
「わかった。やってみるよ」
クランを救う鍵となる装置だ。抱える手のひらにも自然と力が籠もる。
「……ごめん、瑠生。今起きていることはすべて、私が引き起こした事態だ」
鞠花はいつになく弱気だ。姉のこんな姿を見るのは初めてかもしれない。
「らしくないじゃん。姉さんはいつだって自信満々だったでしょ」
昔から頭が良くて優しくて……劣等感すら覚えるほどに。
「その結果がこの有様だよ。自分の不始末を、こんな形できみに――」
「ストップ。こういうときはさ、違うでしょ」
僕は、軽く握った拳を胸の前に突き出した。
「……ホント、そういうとこがね」
鞠花は困ったように笑いながら拳を突き出すと、凛とした表情を取り戻した。
「クランと……『もうひとり』のこと、頼んだよ」
「うん」
こつん、とグータッチをする。
「瑠生さま、ラズちゃん。どうかクランちゃんを」
一緒にクランをここまで運んできた猫山さんは、スタッフチームからは引いた位置で見守っていたが、ここで激励に来てくれた。いつもキリッとした彼女が、ぼろぼろと泣いている。
「はい。きっとお腹空かせてると思うんで、戻ったらおいしいものを作ってあげてください。……あと、猫山さんも一緒に食べましょう」
「お兄ちゃんの声、ちゃんと届くように連れて行くから!」
入口付近で待機している熊谷さんも、こちらに深々と頭を下げていた。
「準備完了しました」
山畑さんから声が上がる。
僕は台座の上に登り、ふたつのストーク・ポッドの間に腰掛けた。
左のポッドには、双子の姉が眠るように横たわっている。
「ごめんねクラン。これからちょっとお邪魔するね」
右のポッドには、双子の妹が頼もしく控えている。
「じゃあ行こうか。ラズ、よろしくね」
「ん。まかせて」
自分の半身にして相棒を救うべく、ラズはサムズアップで応じた。
ヘッドマウント・ディスプレイを被ると、周囲のスタッフがその位置を微調整、固定する。
「それでは、瑠生。ラズ。接続を開始するよ」
――僕はその場に寝そべり、頭に流れ込んでくる感覚に身を任せた。