14_双子のひみつのはなし β:Day15 evening

 僕はしばらくそのまま、腕に抱いた小柄な少女の栗色さらふわ頭を撫でていた。
 人に意思を伝えるのは難しい――水族館での鞠花の言葉が思い出される。
 だから彼女たちがいつもそうしてくれるように、今の僕の正直な気持ちをぶつけたつもりだ。
 ……想いはきっと、クランに伝わっている。
 彼女の抱える不安を、少しは和らげることができるだろうか。

「お兄さま……」

 クランが顔を上げる。
 大いに泣きはらしたからだろう。彼女の頬はほんのりと赤く、大きな瞳は涙に潤んでいる。

「クランは。クランは……」

 その表情は少し熱っぽく……どうしてだろう。少し色っぽくさえ見えた。
 ――だが、次の瞬間。

「……クラン?」

 何かを言いかけたクランから、表情が消える。
 彼女は突然頭を抱え、うめき始めた。

「クラン? ……クラン、どうしたの? しっかり!」

 僕の手を振りほどき、というより何か強い衝撃に耐えかねたように、激しく身をよじったクランが、苦しげな声をあげている。
 何かがおかしい。先ほどまでの情緒的な不安定さとは何かが違う。

「瑠生、どうした!」

 買い出しに出ていた鞠花とラズが駆け寄ってきた。

「わからない。クラン、大丈夫? 頭が痛いの?」
「あっ、う、ぅぅ……っ! おにい、さま……っ……」

 小さな身体が震え、苦悶の表情に歪み、うずくまる。

「クラン、ねえクラン!」

 そのただならぬ様子に、ラズは双子の姉の肩を掴んだ。
 クランの視線がラズの目を捉え――

「ラ、ズ……おにい……ちが、う。『瑠生』……『ワタシ』は……」

 途切れ途切れに発せられる声を聞いた彼女の顔が、青ざめる。

「……違う……! クランだけど、クランじゃない……『この身体に最初からいたほう』だ……!」
「まさか……」

 ラズと鞠花は何かに勘付いた様子だが、僕は理解が追いつかない。

「……どういうこと?」
「すまない、説明は後で。迎えを呼ぶから、階段の下の道路までクランを運んでくれ」

 鞠花がスマホを取り出し、いずこかへ電話をかけ始めた。
 ひとまず指示どおり、クランを背負ってスペイン階段を下る。
 初めておぶった彼女の身体は、思いのほか軽かった。浅い呼吸を背中に感じながら、なるべく揺らさないよう慎重に歩を進める。

 ――いったい、彼女の身に何が起こっているというのだろう?

 鞠花が呼んだ迎えは、ものの数分でやってきた。
 通りの前で待っていると黒いミニバンが目の前に止まり、パワーウインドウが下がる。その中に見えた姿は忘れ得ぬ巨体――黒いスーツとサングラスの熊谷さんだ。

「ラボまで頼む」
「承知しました」

 短く指示を飛ばすと、鞠花は後部座席のスライドドアを開いた。僕はクランを抱きかかえて乗り込み、ラズがそれに続く。
 助手席に鞠花を収めると、車は即座に発進した。その間も鞠花はスマホで、おそらく彼女の属する「ラボ」への連絡を続けていた。

 クランは激しく身悶えすることはなくなったが、言葉を発することもなく、僕の膝の上に力なく倒れていた。
 車内には簡易的な人工呼吸器が備え付けられており、マスクをつけてやると、苦しげな呼吸は多少安定したようだった。しかし、やはりその表情はこわばっており、目も開こうとしない。時折うめき声を発するので、完全に意識を失っているわけではないようだが、かなり混濁した状態に見えた。

「何かの病気なの……?」

 僕の問いに、傍らのラズが首を横に振った。

「ううん。身体に悪いところはなにもない。……だけど」

 彼女は助手席に座る鞠花とルームミラー越しに目配せをし、続けた。

「ラズたちが、お兄ちゃんに内緒にしてたことと関係があるの」

 一息、ためらうような間が置かれる。
 それはおそらく、クランが恐れていたという彼女たちの秘密。
 知るべき時が来たのだと思った。
 僕もまたラズの目を見て頷き、促す。

「ラズたちはね。……もともと、人間じゃなかったの」

 ――その言葉は、予想だにしていなかった。
 いま、目の前にいるラズは。僕の膝に寝そべっているクランは……間違いなく人間だ。僕たちと同じヒトの姿をして、息をして、鼓動を打っている。

「ラズが最初に与えられていた名前は、アドヴァンスド・ヒューマノイド・アーティフィシャル・インテリジェンス――A.H.A.I. 第3号βタイプ。クランは第3号αタイプ。人間の思考や感情を再現するソフトウェアと、それを搭載するハードウェア群から成り立つ、コンピュータシステム」

 息を呑んだ。

「二人が、コンピュータ……機械……?」

 情報がうまく頭に入ってこない。
 だが、無垢で無邪気で甘えんぼうなラズが、僕の目を見つめて真剣な顔で語っている。
 彼女の言葉に、嘘はない。

「じゃあ、ロボットなの……?」
「ううん。この身体は人間そのもの。……今のラズたちは、そのシステムが持っていたデータをヒトの脳に移植した存在なの」

 呆気にとられてしまう。人工知能――AIを、ヒトの脳に?
 そんなことが可能なのか?

「ラズ、その先の説明は私が引き継ごう」

 連絡を終えた助手席の鞠花が口を開く。

「二人の正体については、たった今ラズが語ったとおりだ。今の彼女たちの人格は、ヒトの身体というハードに、特殊なAIシステムが保持していた人格データを書き込むことで成り立っている」
「……それは、姉さんがやったことなの?」

 理解が追いついているかは怪しい。
 が、当然の疑問として、僕はそれを口にしていた。

「システムを開発したのはうちじゃない。うちのラボは、上からその解析と研究を委託されたに過ぎないんだ。……しかし、二人に人間のボディを与えたのは私だよ」
「何のために?」
「どこから嗅ぎつけてきたのか、クランとラズを狙う不届き者がいてね。二人を安全な場所に退避させる必要があった」
「クランとラズを? それこそ、何のために……」
「軍事転用さ。連中が具体的にどうするつもりだったのかは知らないが――人間同様の思考と判断能力を持ったマシンだ。軍隊なりドローンなりの指揮、柔軟な戦況分析と効率的な殲滅プランの構築、使い方はいくらでも考えうる。だが無論、私たちは『クラン』と『ラズ』にそんなことをやらせるのはごめんだった」

 人間と同じ思考ができるというスーパーAIと、それを兵器として利用しようとする組織が存在する――。鞠花が語る経緯は、まるで昔のSF映画か何かみたいだ。

「単に別の場所に移動させるだけでは、そのうちまた嗅ぎつけられてしまうだろうし、そもそも巨大で繊細なハードでもあるから、それ自体が困難でもある。となると、システムを渡さないためには破壊するしかない。それはもちろん二人の死を意味する」

 クランとラズの死。
 それは、仮定として聞いただけでも背筋が冷える言葉だった。

「だから私たちは、『クラン』と『ラズ』自体は存続させつつ、連中が欲しがる価値を失わせようと考えた」

 人間と同じ思考能力を持つというAIのデータを、『わざわざ人間の身体に書き込んだ』という双子の存在。
 ――鞠花と研究所の仲間たちが辿り着いた答えが、わかった気がする。

「人間と同じ思考ができる『機械であること』に価値があるなら……『人間そのもの』にしてしまえばいい、ってこと……?」
「その通り。人間にしておよそ十二歳程度の知能に見合うだけの肉体を人工子宮で急速培養して、その脳にシステムが持つ人格・意識・記憶を移植し――今日から十五日前に生まれたのが、今のクランとラズだ」

 十五日前。その日付は――

「二人がうちに来た日……」

 当初の頼りない足取りや、あらゆるものに不慣れな様子――双子が時折見せた不自然な振る舞いが腑に落ちた。

 クランとラズは、文字通り生まれたばかりだったのだ。
 AIとしての記憶や経験は引き継いでいても、人間としては何もかもが初めてで――「まるで」ではなく、二人はその日初めて、ヒトの目で世界を見て、聞いて、歩いて、お互いの手をとりあったのだ。

「つまり、僕がFXOで一緒に遊んでたとき、きみたちは」
「うん。そのときのラズたちの身体は機械だった。声がないから、テキストチャットでお兄ちゃんとお話ししてた。……だけど、遊び始めてすぐの頃、その悪い人たちがラズたちを狙ってることがわかったみたいで……」

 鞠花たちが行っていた研究データの取得というのは、つまり『クラン』と『ラズ』という、二人のAIプレイヤーにオンラインゲームをさせるということ。
 そしてたった一ヶ月でそれが打ち切られ、彼女たちがゲームの世界から去った理由を、僕は初めて知った。

「システムからデータが失われた時点で連中の目論見は頓挫するはずだが、念のため二人には安全かつ、安心できる場所に退避してもらうことにした。……それが瑠生。きみの家だ」
「なにそれ……そんな大事なこと、どうして最初に言ってくれなかったんだよ!」

 あまりに突飛な話だ。けれどそれが本当なら……僕だけが何も知らなかっただなんて。

「……すまない。仔細を伏せたまま、こんな危険な案件に巻き込むつもりでは」
「そうじゃない! クランとラズの生まれのこと!」

 脳裏に浮かぶのは、クランの悲痛な涙。
 もっと早く言ってくれれば、彼女が抱えた秘密の重さに潰されることもなかったはずだ。

「一連のカタがつくまで、きみに伏せておこうと判断したのは私だ」
「どうして!」

 苛立ちを姉にぶつける僕の手を、ラズが引いた。

「お姉ちゃんを責めないであげて。この身体になったとき、お兄ちゃんと一緒にいたいっていうのは、ラズたちのわがままだったの。……お姉ちゃんはそれを聞き入れて……それでもできるだけ、お兄ちゃんに危険が及ばないようにしたかったんだよ」

 ラズの眼差しは、まっすぐに僕を見つめている。

「もともとお姉ちゃんは今日、このことをお兄ちゃんに話すつもりだった」

 彼女の目に宿るのは、初日の僕がスマホ越しに鞠花を責めていたときに見せていた不安の色ではない。制止の意思だ。

「……ごめん。ちょっと、頭に血のぼった」
「いいさ。私こそ……ごめんね、瑠生」

 僕の身を案じて、というのは本当だろう。
 だけどきっと、姉さんが考えていたのはそれだけじゃない。
 仮に最初からすべて知っていたとして……僕は彼女たちに、まったく同じように接することができただろうか。
 口にはしないけれど、鞠花は、鞠花たちは。きっと先入観を持たずに、普通の女の子として二人に接することを、僕に望んでいたに違いない。

『お兄さまに嫌われたくない』――先ほどのクランの言葉が、涙が、より一層重く感じられた。

「ラズも、ごめんね」
「ううん。ありがと、お兄ちゃん」

 ふたたび、僕の膝の上で荒い呼吸を繰り返すクランに視線を戻す。

「今のクランは、どういう状態なの?」

 たぶんね、と前置いて、ラズが語る。

「ラズとクランがこの身体になったときから、身体の中には『もうひとり』がいたの。さっきのクランの感じ、ラズの中で聞こえてたのとそっくりだった。……クランから身体を取り返そうとしてるように見えた」
「『もうひとり』? 人格がふたつあるってこと?」

 僕の疑問に、ふたたび鞠花が説明を引き継ぐ。

「当然ながら、人間の人格や意識というのは本来外部から書き込まれるものではなく、自然的に発生するものだ。クランとラズの身体にも、やがて人格となる基――人格の種とでもいうべきものが備わっていたんだ」
「じゃあ、たとえば二人の身体に今の人格を書き込まずに放っておいたとしても、時間が経てば別の人格が自然と芽生えてくる……?」

 鞠花は頷きで僕の解釈を肯定した。

「今のクランの状態については、私もラズの推測通りだと考える。おそらく『それ』がクランの人格とは別に独自の意思を持ち、主導権を奪おうとしている」
「それならラズにも同じことが起こるんじゃ」
「ううん、ラズは大丈夫。ラズの中にも『もうひとり』はいたんだけど……もうほとんど聞こえないの。ラズは『もうひとり』に、一緒に生きていこうねって呼びかけたんだ。そうしたらだんだんラズの中にとけて、今はひとつになってきて」
「……そうなっちゃえば、大丈夫ってこと?」
「うん。……クランも、そうだと思ってたんだけど」

 ラズは悔しそうに歯を食いしばった。

「本来『それ』は確固とした人格として成立する以前の基でしかない。放っておいても、ラズのように自然と融合していって……むしろ人格の定着を助けるはずなんだ。しかし、クランはまだそれが成されていなかったのだろう」
「クラン、大丈夫だって言ってたのに。ラズと同じだから大丈夫だよって、言ってたのに……!」

 話を聞くに、クランも自分の中の『もうひとり』について、自覚がなかったわけではないはずだ。その上での『大丈夫』という言葉は――妹を心配させまいとしてのものであろうことは、容易に想像がついた。

「だがそうだとしても、これまで共生していたものが……まして人格として成り立ってすらいないはずのものが、突然クランに対して攻撃的になる理由がわからない」

 鞠花は顎に手を当て、今も状況の推察を続けているようだった。

「起きてることはなんとなくわかったけど、どうすればクランを助けられる?」

 もともと雪のように白い肌は、青ざめて今や氷のようだ。
 この状態が長く続いて、無事であるとはとても思えない。一刻も早くなんとかしてあげたい。

「具体的にどうするかは診断分析してからになるが……ひとまず今、我々のラボに向かっている。二人の人格を今の身体に移植したときの設備が残っているから、それを使えば脳の特定部位にピンポイントでアクセスして、なんらかの処置がとれるはずだ」

 熊谷さんの駆る車は、いつの間にか高速道路を走っていた。
 僕はクランの手を握り、頬を撫で、ハンカチで汗を拭う。
 今それしかできないことが、たまらなくもどかしかった。