1 / 渋矢区 ヨヨギ公園
巨大な三つの火柱は遠方からでも視認できたが、その眩さがいよいよ眼前に迫ってきた。
猫山洋子(ネコヤマ・ヨウコ)がヨヨギ公園周辺に到着したときには、爆発の発生からすでに三十分近くが経過していた。公園を分割するように東西に横切る道路には、多数の自動車が立ち往生し実質的な通行止め状態になっている。突如立ち昇った炎に前進も後退も叶わなくなったのだろう、中には乗り捨てられた無人の車もあった。
救急車両の侵入もままならない一方、野次馬の人混みは歩道を埋め尽くし車道にも溢れはじめていた。怪我人の搬送がそれを押しのけ、怒号飛び交う混乱の真っ只中である。ここまで愛用の赤いバイクで飛ばしてきた猫山だったが、さすがにこの先へは徒歩で進まねばならなかった。
彼女に緊急事態を報せてきたのは、心都大学情報科学研究所の同僚であり専属ガードマンの熊谷和久(クマガイ・カズヒサ)だったが……彼とはそれきり連絡がつかない。猫山と熊谷が保護対象とする女子大生の緋衣瑠生(ヒゴロモ・ルイ)、そしてオーグドールの双子・クランとラズとも言わずもがな。
彼女たちは、まだあの場所にいるはずだ。
「どうか無事で……!」
時は十二月二十四日。
あの子たちは幸せなクリスマスを過ごしていたはずなのに。
今月に入ってから、瑠生と双子の周囲では不穏な出来事ばかりが起こっていた。かつてクランとラズを狙った神川機関残党の暗躍、瑠生のかつての同級生・犬束翠(イヌヅカ・ミドリ)とA.H.A.I.第4号を襲った端末強奪事件――それらがようやく去った今日、彼女たちはめいっぱい遊んで、満面の笑顔で帰ってくるはずで。そのためにとびきりのディナーを用意して待っていたのに。
焦燥する心を抑え、祈り、車道のど真ん中をすり抜けてゆく。
やがて、ある一点で警官や救急隊員たちが固まっているのが見えてきた。彼らはどういうわけかその先へ進もうとはしない。そのうち一人の警官が猫山に気付き、大きく両手を広げて制した。
「危険です、近付かないでください」
「民警特一八の六、猫山です」
「特一八……? 照会します」
猫山が取り出した顔写真入りのカードを確認すると、警官は胸の無線機に手を伸ばした。
研究途上の非公開技術に由来する重要機密――A.H.A.I.の産物たるクラン・ラズ姉妹の警護にあたるスタッフには、民間警護特権と呼ばれる権限が付与されていた。一八のナンバーは彼女が所属する心都大学情報科学研究所を示し、これにより猫山や熊谷をはじめ、心都研の一部職員はこういった公安の封鎖現場に立ち入ることが特例的に許可される。
彼女がこれを行使するのは、春のA.H.A.I.第5号事件で封鎖された首都高に立ち入って以来、二度目のことだった。
「確認取れました。けど、ここから先は我々も進めませんよ」
「進めない……?」
「行き止まりになってるんです」
猫山には警官の言っていることがよくわからなかった。目の前にはこれまで通り、渋滞した道路が続いている……いや、よく見ると何かがおかしい。前方にかかった陸橋には、この混乱の最中でありながら何事もないかのように人が行き来している。それだけではない。その「ありえない風景」はところどころ歪み、ぼやけ、オーロラのようにゆらめいて見える。
「なに、これは……?」
疑問の声に応じるように、警官は片手を軽く上げて後ろに二度、揺らした。
コン、コン。硬いものを叩いたような音とともに、波打つような光の「ゆらぎ」が広がり、消える。
それに倣って猫山が手を伸ばすと、指先が何かに接触した。
手のひらを広げて上下に動かすと、ぺたぺたと触れる感覚がある。金属のように硬く、プラスチックのように無機質で、それでいて冷たさは感じない。
「……透明な壁……? いえ、これは……映像が投影されたスクリーン……!?」
「信じられませんよね。しかしこいつのおかげで、実際の中の様子はわからんのです。公園の東側も……というか、イベント広場のあたりを中心に、かなり広い範囲が同じ壁で塞がれてるようで」
「そんなことって……」
「ああ、気をつけてください。あまりそれに触れていると――」
警官が言いかけたのと同時、猫山は反射的に手を引っ込めた。
指先から腕を伝う電流のような衝撃、あるいは背骨をつららで貫かれたような寒気。なんとも言えない不快感が背筋を昇ってきたのだ。
「なに、これは……」
「気味が悪いですよね、一体なんなんだか」
物理的な痛みや刺激があったわけではない。むしろ精神面に訴えかけてくる感覚だ。不安、悲しみ、寂しさ、恐怖……そういった負の感情を強く呼び起こす何かが、その「壁」からは伝わってきた。
理解を超えた異常事態に、彼女は息を呑む。
これはいったいなんなのか。中で一体何が起こっているのか。いずれにせよ明らかに尋常ではない。どうにかして瑠生たちを助けに向かわなければ――。
そんな焦りを嘲笑うかのように、「壁」の内側から響いてくるものがあった。
重機が地面を鳴らすような異音、地響き、そして微かに聞こえる銃声。おそらくは熊谷の装備品、戦闘ドローンに搭載されたアサルトライフルの射撃音だ。さらには雷鳴のような轟音が「見えない壁」を震わせる。
「瑠生さま、クランちゃん、ラズちゃん……!」
案ずる猫山の声は、無情にも正体不明の障壁に阻まれ――彼女たちに届くことはなかった。
◇
果たしてイベント広場の中で起こっていた事態は、猫山の想像を遥かに上回るものであった。
ヒトの思考と感情の再現を謳うコンピュータシステム、アドヴァンスド・ヒューマノイド・アーティフィシャル・インテリジェンス、通称『A.H.A.I』――その第4号によって操られた六脚機動戦車アレキサンダーが突如として出現し、緋衣瑠生ら三人に牙を剥いたのだ。
A.H.A.I.第4号とその共謀者である草凪一佳(クサナギ・イチカ)の目的は双子の姉妹・緋衣クランと緋衣ラズの抹殺であり、その舞台となったのが、ここヨヨギ公園だったのだ。
A.H.A.I.第4号は、電気を吸収・放出する力を持つ。その電撃攻撃の前に熊谷が倒され、瑠生と双子に味方するA.H.A.I.第5号レオ、第8号シェヘラザードも瞬く間に無力化された。
そして最後の砦として双子を守らんとした瑠生までもがアレキサンダーの鋼鉄の腕に捕らえられ、狂気の刃はついにクランとラズへ向けられた。
激しい閃光が瞬き、二人の無力な少女は為す術なく最期を迎えるはずだった。
しかし死の淵に立たされたその瞬間、彼女たちの中に眠っていたものが覚醒する。
A.H.A.I.第3号α/βの人格データをヒトのクローン体に移植して生まれた生体人形『オーグドール』の双子は、ついにその人工の魂に刻まれていた力を目覚めさせるに至ったのだ。
第3号αタイプに与えられていたのは、接続した機器の処理能力を限界以上に引き出す力。
第3号βタイプに与えられていたのは、接続した機器の任意の機能を即座に停止させる力。
ふたつでひとつの絶対命令能力と、それを為すための補助能力――輝く光となって二人の身体を覆ったそれは、目の前の脅威を打ち破る力となった。
クランとラズは暴れ狂う紫電を真正面から受け止め、生き延びてみせた。
目覚めのトリガーは、双子にとって最愛の人である緋衣瑠生からの贈りもの――新たな名前『ディアーズ』。二人はその誇りを胸に六脚機動戦車と勇猛果敢に戦い、ついに機能停止へ追い込むことに成功する。
かくしてA.H.A.I.第4号とその共謀者の企みは打ち破られ、瑠生、クラン、ラズの三人は、かつてない窮地を脱したのであった。
◇
「やはり駄目か」
心都研のガードマン・熊谷和久は、バッテリーの尽きたスマートフォンを片手にため息をつく。スマホも、ポケットに忍ばせた無線装置も、電子機器はすべてA.H.A.I.第4号によって電力を奪われ、用を為さない鉄の塊になってしまっていた。
熊谷は今、これだけの騒ぎがあったにもかかわらず、外部からの介入が一切なかった理由を悟った。拘束した草凪一佳を肩に担ぎ、公園の外へ運び出そうとしていた彼は、「見えない壁」に道を阻まれたのだ。
「様子がおかしいとは思っていたが……なんだこれは?」
「そんなのオレも知らな……てか、コレ抜いてくんない? もうオレ逃げる元気ないんですけど」
「下手に抜けば傷口から余計に出血するぞ」
「そっすか。そりゃどうも……っ痛ぇ……」
熊谷に担がれて顔を歪める草凪の両脚、ふくらはぎにはナイフが深々と刺さり、止血のために包帯で固定されていた。
この投げナイフは熊谷のもっとも得意とする投擲武器である。
A.H.A.I.第4号が操る多脚戦車・アレキサンダーが放つ電撃の前に、熊谷は一度は倒された。しかし意識を取り戻し復活するやいなや、彼は四本のナイフを立て続けに投げ放ち、先の二本で草凪の持っていたスマートフォンとアサルトライフルを破壊、続く二本で彼女の脚を封じ、一瞬にして制圧してみせた。痺れの残る身体でもそれくらいは造作もないほど、熊谷にとっては馴染んだ道具なのだ。
熊谷の眼前には、異様な光景が広がっている。人々の喧騒、救急車や消防車のサイレンは聞こえども、目の前に見えるのは平和そのものの街。投影された偽りの風景だ。
目を凝らして見上げれば、夜空との境目が微かに見えるが――高さは十メートル以上あるだろうか。さすがの熊谷も、ダメージを受けた身体で人ひとり抱えて飛び越えることはできない高度である。材質はプラスチックでも金属でもない。しかしことさらに不気味なのは、触れたときに接触面から伝わる得体の知れない不安感や恐怖感だ。何もかもが常軌を逸している。
「これは第4号の能力ではないのか」
「知らねえっての。むしろオレも納得いったよ。こんなわけわかんねえもんが立ってたら、そりゃ誰もこの場所に入ってこれねえや」
おそらく、草凪の言葉は嘘ではない。
あの六脚機動戦車といい、イベント広場を隔離した爆発物といい、彼女ひとりで用意したものとは到底考えられなかった。つまり裏で糸を引き、この状況を作り出した第三者が存在するはずであり、「壁」もその何者かによって用意された舞台装置なのだろう。
そしてそれは、未だ健在である――危機感を覚えた熊谷が、瑠生たちのもとへ戻るべく踵を返したその時であった。
「おや、様子を見に来てみれば。酷い有様ですね、草凪一佳さん」
柔和な、それでいて刺すような鋭さを含む声色が雪の静寂に響く。
いつからそこにいたのか、熊谷の視線の先にはひとりの男が立っていた。