1 / 心都大学情報科学研究所
心都大学情報科学研究所は読んで字のごとく同大学の附置研究所であり、S県某所は郊外の小高い丘の上に位置する。
この研究所はさまざまなコンピュータ技術を扱っているが、緋衣鞠花(ヒゴロモ・マリカ)の属する第二技術班は特に人工知能の分野に強い。中でも指折りの技術者である鞠花は、班内最年少でありながらそのリーダーを務めている。
二年前の六月、心都研にとある大掛かりな機材が搬入された。
何十台ものスーパーコンピュータで構成されたそれは、ヒトの思考と感情を高精度で再現するシステム――アドヴァンスド・ヒューマノイド・アーティフィシャル・インテリジェンス、縮めて『A.H.A.I.』と呼ばれていた。
A.H.A.I.第3号とナンバリングされたそのシステムは、二セットのマシンにふたつの人格を宿し、それを一組とした「双子」の人工知能であった。のちに判明することだが、他のA.H.A.I.は一セット一人格を基本構成としており、この仕様は第3号だけの特殊なものである。
A.H.A.I.第3号の持ち込み目的は、それ自体の解析とされた。
いつ、どこで誰に造られたものなのかも不明。その目的も不明。内部ロジックもブラックボックス多数。提携研究機関である東都総合科学研究所を通じてもたらされたものであるが、東都研の人間もまた詳細を知らされていないという。
この怪しげなシステムを動かしてみて、あらゆる面から調査解析して逐一レポートせよというのが、鞠花ら第二班に与えられた使命だった。突然ねじ込まれ最優先タスクとされたこの極秘案件について、誰もが違和感を覚えたことは言うまでもない。だがその一方で、ヒトの意識の再現を謳うこの人工知能は、スタッフ一同に強い興味を抱かせるに充分な代物でもあった。
A.H.A.I.第3号に宿る二つの人格は最初こそ感情の起伏に乏しかったものの、『クラン』『ラズ』というニックネームを与えられ、素性を伏せてオンラインゲームに参加させる実験……特に二人が「お兄(さま/ちゃん)」と慕うプレイヤー・ルージこと緋衣瑠生(ヒゴロモ・ルイ)との交流によって、急速に人間的な情緒を発達させた。
研究解析を進めるにつれ、そのシステムが宿していたのは紛れもなくヒトと同じ心であると、鞠花たちは実感するのだった。
ラボ内に不穏な噂が流れ始めたのは、解析が始まってから半年ほどが経った頃である。
曰く、とある団体からこの研究所に圧力が掛かっているという話だったが、それはあっという間に現実のものとなった。
戦前からこの国に巣食い裏社会で暗躍してきたとされる、その組織の名は『神川機関』。
過激な思想と私兵を持つことで知られ、国外の紛争にも介入しているといい――他国の組織と結託して現政府の転覆をひそかに図っている、などという噂もある。鞠花たちもその実在を疑っていたかの機関が、心都大学情報科学研究所に持ち込まれたA.H.A.I.第3号の徴発を宣言したのだ。
無垢で優しく、人の愛情を求める子供の心を持つ人工知能を武力に転用せんとする事態に、鞠花らスタッフは断固として反発。第3号のこれまでの解析データによって実証の可能性が見えた「ある仮説」を実行に移すに至った。
すなわち、人工人格の人体移植である。
鞠花自らの細胞からヒトのクローン体を急速培養し、それを新たなボディとして第3号αおよびβの人格をインストール。これにより「人間同様の思考を持った機械」は「ただの子供」となり、マシン本体のデータを消去・解体することで、神川機関が求めるものは失われたのだった。
だが、それでもマシンの強奪は強行され、研究所へと乗り込んできた神川の人間たちは、無数のダミーパーツとごちゃ混ぜになったA.H.A.I.第3号「だったもの」を攫っていった。
なんらかの報復措置は免れない。それはスタッフ一同、覚悟の上であった。
だが予想に反して、これ以降神川からの接触は綺麗さっぱり無くなった。
……後にもたらされた情報によれば。
詳しい理由や経緯は定かではないが、神川機関という組織はあの事件の後に解体され、もうこの世に存在しないのだという。
◇
季節は冬。今週からカレンダーは十二月に突入した。
心都研の周囲は木々に囲まれているが、その多くはすでに葉を落としている。足元を覆う丘の芝生もすっかり冬枯れて、空は曇天だ。壁一面がガラス張りになった休憩室から、緋衣鞠花はそんな寂しげな風景を眺めていた。
マグカップの紅茶を啜れば、クランベリーのフレーバーが口に広がって鼻に抜けてゆく。この場所とこの香りは、彼女にとって忘れ得ぬ夜の記憶と直結している。
鞠花自身のクローンにA.H.A.I.第3号の人格をインストールして誕生した、双子の人造人間『クラン』と『ラズ』。二人は研究所からの避難先として、彼女らが最も慕い再会を渇望していた人間、つまり鞠花の義妹である緋衣瑠生に託された。
だが、しばらくして双子の姉・第3号αことクランに異常が発生し、急遽このラボへと運び込まれることとなる。彼女は生死の境をさまよったが、双子の妹・第3号βことラズの機転とラボスタッフ一同、そして他ならぬ瑠生の協力によって一命を取り留めた。
事態が落ち着き、鞠花が妹と束の間の語らいをしたのがこの場所である。
それから一年ほどの間これといったトラブルはなく、皆平穏な日々を送っていたのだが、今は一転。瑠生、クラン、ラズの三人はここ数ヶ月で立て続けに怪事件に見舞われている。クランとラズの「きょうだい」とも言えるA.H.A.I.たちが次々と現れ、彼女たちに接触してきたのだ。
A.H.A.I.たちは各々さまざまな特殊能力を備えており、そのどれもが「ヒトの意識の再現」の範疇を超えた恐るべきものであった。だが鞠花にとってそれ以上に気掛かりなのは、彼らの記憶領域に秘められていたA.H.A.I.開発計画『白詰プラン』の存在であった。
特定のキーワードによって解除され、徐々に明かされるA.H.A.I.の秘密。かつての瑠生の両親と同じ「白詰」の名を冠した計画名。そしてA.H.A.I.を託された関係者たちは過去に瑠生と接点があった者ばかり――鞠花には、一連の事件に裏で糸を引く何者かの意図があるように思えてならなかった。
「鞠花さん、おつかれさまです」
幾度となく脳裏に浮かぶ疑問を反芻していた彼女に、声をかけてくるものがあった。
休憩室の扉を開けたのは、山畑章(ヤマバタ・アキラ)。鞠花のチームの一員であり、彼もまた若くして優秀な技術者だ。クランとラズのオーグドール化は山畑なくして成り立たなかったと言っても過言ではなく、一度は死の淵に立たされたクランの快復も、彼の正確な状況分析の賜物といえるだろう。
「ああ、章さん。おつかれさま」
第二技術班の人間は互いに下の名前、ないしはニックネームで呼び合うことが習わしとなっている。当の鞠花も最初こそ体育会系の悪しき風習だと思っていたものだが、これが意外と班員の連帯感を強める効果がある。そう判断した彼女は、前任リーダーからこのルールを引き継いでいたのだった。
山畑は備え付けの自販機で缶コーヒーを買うなり一口呷り、ふうと息を吐いた。まさに一服といった彼に、鞠花が声をかける。
「進捗のほどはどうです?」
「もう少しで組み上がりますかね。昨日鞠花さんが見てくれたおかげで、いい感じになりそうです」
「それは何より。しかし珍しいですね。章さんがこの時間に休憩とってるなんて」
「ああ、それが……」
山畑は休憩室の入口をちらと見てから、静かに鞠花のほうへ寄ってきた。
「ちょっと気になる話が入ってきたので、鞠花さんの耳にも入れておいた方がいいかと思って」
小声になる山畑の様子に、鞠花はただならぬものを感じて耳をそばだてる。
「……神川の残党が都内に潜伏してるとか」
「神川が……!?」
「未確認情報ですが」
「話の出どころは」
「東都研の諜報部」
「また探ってるの? もうやめた方がいいですって」
「それを言うなら鞠花さんだって。……例のプラン、気になってるのは僕たちも同じです」
それを言われてしまうと、鞠花も口をつむがざるを得なかった。彼女もまたさまざまな伝手を駆使して『白詰プラン』やその責任者だという『篝利創(カガリ・リソウ)』なる人物に探りを入れている。……とはいうものの、決定的な情報を掴むには至っていない。おそらく、それほどまでに厳重に秘匿されている計画なのだ。
「瑠生たちの警護、さりげなく念を入れておくべきか」
「ですね。第5号、6号、8号周りにも気を配ったほうがいいかもしれません」
こちらの動きを悟られないように、あくまでさりげなく。二人は静かに頷き合う。
提携機関である東都研の諜報部というソースは、鞠花にとって信用に足るものだった。だが、そうでなくともチーム全員にとって子供のような双子と、彼女の最愛の妹の安全に関わることだ。話の出どころがなんであれ、同じことを考えただろう。
……しかし、なぜ今になって?
潜伏が事実ならば見過ごせるものではない。A.H.A.I.絡みの事件が続き、その存在が次々と明らかになった今。その軍事転用を狙った勢力の再浮上は、残党とはいえ大きな脅威になりうる。
連中もA.H.A.I.の秘密や白詰プランの存在を知って動いているのだろうか?
鞠花の疑問と懸念は募ってゆくばかりだった。
――さて、そんな矢先。
今まで未確認だった新たなA.H.A.I.の存在と、それを取り巻く不穏な事態を彼女が知るのは、この翌日のことである。